国宝 秋篠寺 本堂 奈良市


秋篠寺
本堂
国宝
鎌倉時代前期

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(歴史)

秋篠寺は、奈良時代末期の宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により、平城京大極殿西北の高台の地に、善珠が創建したと伝わる。
 本尊は薬師如来。
 寺の造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ、平安遷都とほぼ時を同じくしてその完成を見た。
 大同元年(806年)に桓武天皇の五七忌(三十五日)が秋篠寺で行われるなど、天皇家とも関連の深い寺院だった。
 平安時代後期から寺領を増大させていったが、保延元年(1135)、兵火により、金堂東西両塔等、講堂以外の 主要伽藍の大部分を消失した。 鎌倉時代以降は、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修補、南大門の再興など、復興造営 されていく。 しかし、明治初めの廃仏毀釈により、寺域の大半が失われ、現在の姿を呈するに至る。

現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、奈良時代創建当時のものではなく、鎌倉時代の改修による再建である。
 事実上は鎌倉時代の建築となるが、様式的に奈良時代建築の伝統を生かし、単純素朴の中にも均整と落ち着きをみせる 純和洋建築として注目される。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

この日の秋篠寺境内はまだ紅葉真っ盛りで、平日にもかかわらず数多くの参拝客がいた。
 貴重な国宝本堂以外にも、古い仏塔の礎石がはっきり残っていたりと、 仏塔好きの私にとってはかなり見ごたえのある寺院だった。
 本堂に関しては、奈良時代創建当時は講堂として建立された建物だったが、 金堂が保延元年(1135)の兵火で消失したため、その代わりに本堂とするために、鎌倉時代に講堂を大修理したものだという。
 だから記録の上では鎌倉時代前期に建てられた建造物ということになっている。
 しかし、その大修理が、元々の講堂の部材や形状などをある程度引き継いだものだったのか、 あるいは、その原型をとどめないほどのレベルのものだったのかによって、その建立年代が変わってくると思うのだが、 果たしてどうだったんだろう。
 何にせよその簡素で一切の無駄が無い、いい意味での単純素朴なその本堂は、奈良時代の建築様式をふんだんに受け継いでおり、 古都奈良の国宝の中でもかなりレベルの高い建造物だといえるだろう。


初回訪問日&撮影日 2012年11月22日

(※国宝建造物撮影ポイント)

建物外観は自由に撮影可能


@東門

私は自動車で来たので、駐車場に近いこの東門から入った。 南側には南門もある。


A参道

まだまだ紅葉が美しかった。


B東塔跡礎石

秋篠寺創建当時には、東西二つの塔が建っていたが、保延元年(1135)に焼失。 現在はその礎石跡のみを残す。  何重の塔だったのか、どんな塔だったかなど、詳細は不明のようだ。


C金堂跡の苔庭

金堂も東西両塔と同じく、保延元年(1135)に焼失。


D大元堂と開山堂

大元堂には、秘仏の大元帥明王像を安置する。


E境内の紅葉

十三重石塔の周りの紅葉。


F本堂(国宝)

保守的で一切の無駄を省いたいい意味での簡素なその外観は、鎌倉時代建造でありながら、奈良時代建築を思わせる。


G本堂(国宝)

正面から。ベンチに座りながら見学するとこんな感じだった。

アクセス
近鉄大和西大寺駅下車。奈良交通バス72号系統押熊行きに乗車の上、「秋篠寺」バス停下車

駐車場 有

仏塔巡礼ドライブ難易度 易しい(★★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

仏塔巡礼おすすめアクセス方法
自動車によるアクセスがおすすめ。

住所
奈良市秋篠町757


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