国宝 羽黒山五重塔 (山形県鶴岡市)


羽黒山
五重塔
国宝
1372年(南北朝時代)

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(歴史)

羽黒山は、593(推古元年)年、政争に巻き込まれた蜂子皇子が、難を逃れるために出羽国に開山した御山である。  皇子は羽黒山のあと、月山、湯殿山も開山。 それらを総称して出羽三山と呼び、その中でも羽黒山は、 出羽三山の神々を合祀する御山であり、山岳信仰の神域として崇められてきた。

この五重塔は平安時代に平将門が創建したと伝えれれるが、現在の塔は室町時代中期、応安5年(1372)に再建されたもので、東北地方最古の 塔である。 その特徴は、こけら葺屋根の三間五層で純和様の素木造りであり、古様の手法が随所に見られる。  例えば、中備えの間斗束が四層で中央間だけになっており、五層では各間とも入っていない点や、各柱間に掛けられた垂木が、 中央間は上にいくにしたがって一本ずつ減り、両脇間では二層ごとに一本ずつ減っていき、五層目が初層の七割ほどの 大きさになっている点などであり、それらの手法により、塔自体のプロポーションを美しく見せているという。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

東北旅行二日目。 初日の仙台・松島周辺観光は、文句なしの晴天に恵まれたのだが、この日は 朝から土砂降りの雨だった。
 山形市内のホテルで一泊し、朝早くホテルを出て、少し離れたホテル専用駐車場へ歩いただけで 既に、私も友人もずぶ濡れになっていた。
 ちなみに二人とも高レベルの雨男である・・・。
 朝一で向かう 『羽黒山五重塔』 は私たちにとっていわば、この三日間の旅行におけるメインとも言える場所である。
止まない大雨の中で、レンタカーを鶴岡市へ向けて走らせる道中、『雨男が二人も揃うとその雨の確率は、片割れの二乗分にも跳ね上がるのだろうか』・・・ などと心の中でボヤきつつも、私にとって、最後まで行き残した国宝指定仏塔に対峙する期待と興奮が徐々に脳内を占拠してきて、いつしかそんな大雨など、全く 気にならなくなっている自分がいた・・・。

土砂降りの山形自動車道を1時間以上走らせただろうか。 鶴岡市内のインターチェンジを降り間違えたために 到着は予定より多少遅れたが、無事、出羽三山神社入口付近の駐車場に到着した。
 この場所から徒歩で行ける場所に羽黒山五重塔がある・・・。 そう思うとすぐに自動車を飛び出して 目的地に向かいたいところだったのだが、自動車の外で降る雨は激しさを増すばかり・・・。 私たちは しばらく、車の中で雨足が弱まるのを待つことにした。

数十分待っただろうか・・・。 車を出て、近くの『いでは文化記念館』などで時間を潰すも、 一向に雨足は弱まらなかったので、意を決して私たちはその大雨の中、小さな傘片手に、五重塔へ向かうことにした。
 羽黒山境内入口である鳥居と随身門をくぐり、参道の階段を降りていく。
 左右には国の天然記念物である杉の巨木 が鬱蒼と立ち並んでおり、霊山の雰囲気がひしひしと伝わってきた。
 そんな荘厳な雰囲気の中を進みゆくと、羽黒山五重塔を舞台にした歴史小説 『禊の塔』(久木綾子著)  でも登場した祓川と、そこに流れ落ちる須賀の滝に到達。 かつて羽黒山に入山する人々は、この地で禊を済ませて入山したという。  激しい濁流が龍のように流れるその風景は、まさに天然の結界のようですらあり、人間界と聖域を区切る禊の場とされてきた理由も 想像できる。
 しばらくの間その風景を眺めた後、 更に奥へ足をすすめると、杉巨木が立ち並ぶ参道内においても際立って巨大な一本の杉が見えてきた。
 樹齢1000年以上を誇る爺杉である。  その高さは写真に収まりきらないほどであり、幹周りはゆうに8mを超すという。

私は今まで、これほどまで大きな杉の木を見たことがなかった・・・。 爺杉のその厳然たる姿に感嘆のため息をつこうとしたその刹那、爺杉の右背後、 杉林のすきまから見えたある存在によって、そのため息は一瞬でかき消されてしまった・・・。

『羽黒山五重塔』である。

私はゆっくり息を飲み、爺杉から右方向へ歩を進める。
 いつも思うのだが、私は仏塔初訪問の際に、初めてその仏塔を視認し、その仏塔の方向へ歩いていくこの瞬間が一番好きだ。
 その瞬間のなんとも言えぬワクワク感を味わいたいがために、仏塔巡りを続けてきたといっても過言ではない。
 そして五重塔の正面にまわると、左右に巨木がずらりと並んだ石畳の奥に、『羽黒山五重塔』は、荘厳な存在感を醸し出しつつも、静かに鎮座していた・・・。

その素晴らしい立ち姿を見たとき、私は土砂降りの雨の中をわざわざ来た甲斐があったと感じた。
 最早、 大雨のことなどとっくに思慮の外である。 この五重塔の見た目の素晴らしさは、天候等に一切左右されない。
 むしろ、この大雨を含めた羽黒山の過酷な自然状況すべてが、この五重塔を更に美しく見せているとも言える。

素木造りのその五重塔は、一部分として無駄な装飾が無く、正統派の純和様式である。   木立に囲まれた湿潤なこの環境下に適さない柿葺屋根ながら、定期的な葺き替えを行い、その美しさを何百年も維持してきたという。
 また、塔自体のプロポーションを美しく見せるために、各層の比率を変えていく手法に頼らず、 各層の『垂木』の本数や大きさを変化させるなど、古様の手法を用いている。  まさにそのすべてが歴代の匠達によって計算されてきた業物といえる。
 かつて『羽黒山五重塔』は、廃仏毀釈の影響で、取り壊しの危機に瀕したが、地元の人々の尽力などにより 奇跡的に免れたという。
 関西に比べて、古い仏塔が少ないこの地で、これほどまでに貴重で素晴らしい五重塔が 廃仏毀釈を免れ、現在でも拝観できるということは、ある種、奇跡と言っても過言ではないだろう。

この日『羽黒山五重塔』を拝観したことによって、日本各地の国宝仏塔は、すべて巡ってしまったわけだが、 その達成感を感じるとともに、少しさびしい気分にもなった。
 日本各地には、私がまだ訪問していない仏塔が 、重要文化財指定仏塔10数箇所を含めて、まだ無数にあるのは事実である。
 しかし現在はネットを含めた情報が発達しており、行ってない仏塔の情報も手に取るように分かる。
 この『羽黒山五重塔』を含めた、『国宝指定30仏塔』に匹敵する衝撃を私に与えてくれる仏塔は、 残念ながらもう残っていないだろう。
 そう言う意味でこの『羽黒山五重塔』参拝は、仏塔巡りを続けてきた私にとって、大きな区切りと言えた。

人の世は儚い。 儚いなりにも人々は必死に流転し、そして最後にはこの世から消え失せる。
 しかし『羽黒山五重塔』はこれからも、そんな人々に拝観され、そして管理修繕を受けつつも、この地で立ち続けるだろう。
 儚いなりにも人の世が存在する限り、いつまでも・・・。


初回訪問日&撮影日 2012年11月08日

(※国宝建造物撮影ポイント)
外観は自由に撮影可能

@いでは文化記念館

駐車場付近にある。 出羽三山に関する書籍を数多く扱っていたが、内容は少し難しめのものが多かった。  久木綾子著『禊の塔』もここで手に入る。


A羽黒山境内入口

鳥居の奥にあるのは随身門である。 向かって右側に「櫛磐間戸神」、左に「豊岩間戸神」を安置。  元禄15年(1720)に矢島城主生駒讃岐守の奥方が仁王尊と共に奉納したもので、明治のはじめまで仁王門と呼ばれていたが、 廃仏毀釈の影響により、前途のものに変えられた。


B羽黒山参道

鬱蒼とした杉林に包まれる参道には、2446段の階段があり、全て登りきると羽黒山三神合祭殿に行くつく。


C境内社の数々

まず最初に行き着くこの場所。 山道にはこういった境内社がいくつかある。


D祓川にかかる神橋

五重塔に到着する前に渡ってみることに。


E神橋

雨のせいか、路面は滑りやすくなっている。もし落ちて濁流に飲まれたらただではすまないだろう。


F須賀滝

滝の下にあるのは、境内社の祓川神社と岩戸分神社。


G雨で増水した祓川

かつて羽黒山を参拝した人々はこの川で禊を済ませてから入山したらしいが、こんな大雨で増水した日は、とてもじゃないが出来なかっただろう。


H天然記念物「羽黒山の爺杉」

根元周囲11m50cm、目通り周囲8m30cm、樹高48m30cm、樹齢1000年以上といわれ、山内随一の 巨木である。


I爺杉

せっかくだから近くに寄って見てみることにした。


J真下から見上げた爺杉

昔はもう一つの巨木、「婆杉」があったそうだが、倒壊してしまったらしい。 高すぎて上部は見えなかった。
 話は逸れるが、羽黒山の一つ一つの風景に見入ってしまい、申し訳ないが一緒にいた友人の存在を忘れてしまっていた・・・。


K爺杉と五重塔(国宝)

この場所で初めて五重塔を視認する。 爺杉も素晴らしかったがこの時点で私の頭の中は五重塔一色。 早く近づきたい気持ちで いっぱいになった。


L杉の木の間から垣間見た五重塔

杉林の中で聳えるその姿は、実寸よりもかなり大きく見えているかもしれない。


M真下から見た五重塔

写真は何枚撮っただろうか・・・。 このように見上げたアングルだと、レンズに雨がかかり、くもってしまう・・・。


N廃仏毀釈と羽黒山

もともと羽黒山一帯には、数多くの寺院が建ち並んでいたが、明治維新の神仏分離令 (廃仏毀釈)によってその多くが破壊される。
 特に、東京から赴任してきた西川須賀雄なる宮司は、徹底した廃仏毀釈を推し進め、羽黒大権現・月山大権現・湯殿山大権現を、 強引に、『出羽三山神社』として、神道化。  山内にあった数多くの仏像や石像などを、安い値段で売却させたり、谷に投げ捨てさせたりする。
 神仏分離前、仏堂だったこの五重塔も当然の如く、破壊の対象になっていた。 しかし、地元の 人々の信仰が厚く、内にあった仏像を御神体に取替え、神を祀る五重塔とし、廃仏毀釈を推し進める蛮人たちから護り抜いたという。


O私の個人的意見

寺院の歴史、というより、日本の文化史を語る上で、明治政府が推し進めた『神仏分離令』を発端にして起こった、『廃仏毀釈』は、 絶対に許せない人間の蛮行だといる。
 この素晴らしい『羽黒山五重塔』も一歩間違えば、その時期の薄っぺらな思想に操られた蛮人たちの手によって、 あっけなく破壊され、ただの木片にされたかもしれないのである。 この地はただの杉林になっていたかもしれない。
 『羽黒山五重塔』は、地元の人々に守られてそういった難を逃れたケースだが、そうでなかった 数多くの仏塔が、廃仏毀釈のもとに破壊された・・・。
 『永久寺八角多宝塔』をはじめ、現在残っていれば『羽黒山五重塔』に引けをとらぬ名塔もたくさんあっただろう・・・。
 明治時代『廃仏毀釈』によって現れた日本文化史の膿とも言える蛮人達・・・。 未来永劫、そういった人物が、この日本に現れないことを願いたい。

交通アクセス

JR鶴岡駅から庄内交通バス羽黒山行・羽黒センター下車すぐ

駐車場有

仏塔巡礼ドライブ難易度 非常に易しい(★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

仏塔巡礼おすすめアクセス方法
自動車で行くのがおすすめである。

住所 山形県鶴岡市羽黒町手向字手向7



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