国宝 宝厳寺 唐門 滋賀県長浜市



宝厳寺
唐門
国宝
1603年(慶長08年)

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(歴史)

竹生島宝厳寺の歴史は、神亀元年(724)、聖武天皇が僧行基を勅使としてつかわし、開基させたのが 始まりとする。 以来、伝教大師、弘法大師なども来島して修行したと伝えられ、豊臣秀吉の時代には、 多くの書状、宝物が寄贈された。 慶長7年(1602年)には、太閤の遺命により、秀頼が豊国廟より 観音堂や唐門などを移築させている。
 明治時代には『神仏分離令』により宝厳寺より都久夫須麻神社が分けられ、元々は宝厳寺の本堂だった 建物を現在の都久夫須麻神社の本殿に改め、宝厳寺自体を廃寺として神社に改めよとの命令が下った。
 しかし、全国の信者たちの要望で廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すことになったという。
 現在の本堂は昭和17年に再建されたものである。

国宝・宝厳寺唐門はもともと、豊臣秀吉が建てた大坂城の本丸と二の丸の間にかかっていた屋根や望楼を 持つ橋・極楽橋の一部だった建物であり、その後、京都東山の豊国廟(秀吉の亡がらを葬った場所)に移築。  更に秀吉の子秀頼が、当時荒廃していた竹生島の伽藍整備の際に、それをこの地に移築したものである。
 桧皮葺で、建物全体を総黒漆塗りとした上に、極彩色が散りばめられていたが、長年の風雨で かなり褪せてしまったという。  破風板内部の正面中央には大型の蟇股が置かれ、その内部は牡丹の彫刻で埋められ、 蟇股の外部や脇羽目なども多彩な彫刻で埋め尽くされている。  豪華絢爛といわれた桃山様式の代表的遺構であるうえに、現存唯一の秀吉時代大坂城の遺構として、 大変貴重なものである。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

この日、琵琶湖汽船を利用して、神仏習合の島・竹生島へ到着後、まずは165段の石段を登りきったとろこにある、宝厳寺の本堂や、三重塔、宝物殿などを見学し、 次に、別の石段を降りて行き、その途中にある、国宝・宝厳寺唐門を見学した。
 この国宝・宝厳寺唐門は、背後の宝厳寺観音堂(重要文化財)と接続しており、更にその観音堂からは渡廊(重文)が伸び、都久夫須麻神社本殿と直接連絡している。
 このことから、宝厳寺と都久夫須麻神社は、現在別法人でありながら、不可分の関係であることが理解できる。
 一見、この状態は、神仏習合の島と呼ぶに相応しいと言えるかもしれない。  しかしこの状態になったのは、様々な紆余曲折を経ての結果なのである。

明治時代の始め、明治政府は神道国教化の方針を採用し、それまで広く行われてきた神仏習合を禁止するため、『神仏分離令』を発した。
 『神仏分離令』はもともと、仏教排斥を意図したものではなかったとはいえ、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈運動がおこり、 日本各地の寺院建造物や仏具、仏教美術品などの破壊が行なわれ、数多くの寺院が廃寺になった。
 神仏習合の島・竹生島も、大いにその影響を受け、宝厳寺より都久夫須麻神社が分けられ、 宝厳寺自体を廃寺として神社に改めよとの命令が下ったという。

全国の信者たちの強い要望により廃寺は免れ、本堂の建物のみを神社に引き渡すだけで済んだという点では、宝厳寺はまだマシな方だったと言えるかもしれない。  もし廃寺になっていたら、島内に残る寺宝の数々も処分され、本殿に成り代わった本堂以外の建造物は、破壊されてしまった可能性もあったわけである。

日本では古くから神仏習合の土壌があり、神と仏がうまく共存してきた。  その神と仏を強引に分離し、数多くの寺院を廃して、 神社は国民に『国家神道』の精神を埋め込むための道具として利用していくという行為・・・。
 それは、仏だけでなく、神をも冒涜する行為だ。
 これは田舎藩士上がりの政治家ごときが行っていい範囲だとは到底思えない。
 明治時代の政治家たちは一体、何様のつもりだったのか?
 明治維新の功績に酔って、自分たちが神以上の存在にでもなったつもりでいたのだろうか?

現在、日本に残る古い国宝建築や国宝美術品などの大半は寺のものである。  いわば、長い歴史を持つ寺院建築や美術品=国宝と言える。  これら国宝は、歴史の中でたびたび、時の権力者たちによる戦火の犠牲になってきた。 ただしそれは、対抗勢力間だけの話である。
 それに対して、明治政府が行った『神仏分離』や、その『神仏分離』に端を発して、薄っぺらな私情により民衆や神官たちが行った 『廃仏毀釈』は、そんな生易しいレベルではない。
 それらを実行した連中は、それらの政策において、人こそ殺していないとはいえ、日本国内から、先人たちの文化の結晶である日本の宝の大半を、根こそぎ無にしてしまおうとしたのだ。
 これは長い日本文化の歴史上、最悪の蛮行であり、明治維新での彼らの薄っぺらな功績など、すべて無にして余りある暴挙である。

いや、そもそもが、『明治維新』というもの自体、日本近代化の功績でもなんでもなく、『尊皇』とう言葉を使って天皇を利用した官賊、 つまりは、田舎藩士たちのテロにすぎないのだが、それを語りだしたら話が長くなるので、ここではやめておく。
 現在の学校教育ではしきりに、日教組を中心とした教員たちが、尊王攘夷志士たちを英雄視し、彼らよる明治維新が、 日本に近代化をもたらしたと教えているが、彼らの『国家神道』が、最終的に日本を太平洋戦争へと導き、 多くの人命を奪ってしまったという現実からは全く目をそらしている。
 太平洋戦争では空爆などにより、さらに多くの国宝建築が焼失してしまう結果となったのだから、 結局、明治政府の政策が原因として、どれだけ多くの国宝建築・美術品が無くなってしまったのか、計り知れない。

明治政府や、『廃仏毀釈』を薄っぺらな私情で行った民衆や神官たち。 それら蛮人たちによる取り返しのつかない軽率な行為により、無に帰されてしまった数多くの日本の宝は、永久に帰ってこないのである・・・。

『平田国学』を齧っただけで、『国学』そのものを理解したつもりになり、文明人を気取っていた、猿以下の脳みそしか持たない蛮人たちが殲滅しようとも・・・。


初回訪問日&撮影日 2013年11月22日

(※国宝建造物撮影ポイント)

自由に撮影可能


@唐門へ降りる階段から見た竹生島港

なかなかの絶景ポイントである。


A宝厳寺唐門(国宝)

港の風景に見とれていると、すぐに唐門も見えてきた。


B宝厳寺唐門(国宝)と観音堂(重要文化財)

観音堂は、入母屋造檜皮葺き。 西国三十三所観音霊場第30番札所で、本尊の秘仏千手観音立像(鎌倉時代)を安置する。  傾斜地に建つため、床下に長い柱を立てて支える懸造となっている。 千手観音像は秘仏で、開扉は原則として60年に一度であるが、近年では三重塔落慶の時など、 例外的に開扉されることもあったようだ。


C正面から見た宝厳寺唐門(国宝)

豊臣秀吉築大坂城の唯一の遺構が、この美しい島にあったのは驚きである。


D観音堂(重要文化財)内部

秘仏はこの奥に安置されているのだろうか?


E渡廊(重要文化財)

宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社を結ぶ屋根付きの廊下である。豊臣秀吉の御座船の用材を用いて建てたという伝承から「船廊下」の称がある。


F渡廊の屋根部分

現在工事中で、工事ネットが張られていた。


G都久夫須麻神社本殿(国宝)

渡廊を歩いた先に接続している。

アクセス JR北陸本線「長浜」駅下車。徒歩10分で長浜港へ。長浜港から船で30分
又はJR「近江今津」駅下車。徒歩5分の今津港から琵琶湖汽船乗船25-30分

駐車場 無 自動車の場合、長浜港もしくは今津港周辺の駐車場を利用し、港からは船で。

国宝巡りドライブ難易度 (―)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

おすすめアクセス方法
琵琶湖汽船を利用。港は「長浜港」か「今津港」のどちらからかを選択する。

住所
長浜市早崎町1664


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