日本100名城 079番 今治城(吹揚城、美須賀城) 愛媛県今治市




日本100名城 079番
今治城(吹揚城、美須賀城)
県指定史跡
写真上は天守と山里櫓、山里門
写真下は天守と藤堂高虎像

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(歴史)

関ヶ原の戦功で伊予半国20万石を領した藤堂高虎は、慶長7年(1602)にこの地に築城を開始し、 約6年の歳月をかけて、慶長13年(1608)頃に完成した。 その直後慶長14年(1609)、高虎は伊勢国津城へ移封となり、 同時に天守は丹波国亀山城に移築したと伝わる。 今治城には、養子の高吉が居城した。  寛永12年(1635年)には伊予松山城主松平(久松)定行の弟の定房が三万石で今治城主となり、 明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。  明治時代なって城の建物は全て解体されたが、中心部の石垣と内堀はほぼ完全に残っている。

創建時の五層天守は、史上初の「層塔型」天守で、本丸の中央付近に建っていたとされるが、 それに対して現在の天守は、「望楼型」の構造であり、本丸跡の北隅に昭和55年(1980)に再建された。  移築先である亀山城の天守の古写真を参考にしたとされているが、亀山城にはない意匠が随所に施されている。  所謂、模擬天守である。


(100名城訪問日記)

この日、今治城へは、JR「岡山」駅から特急しおかぜに乗ってやってきた。  平日だったため空いており、快適な列車の旅だったが、JR「今治」駅に到着し、バスで今治城へ到着するやいなや、 雲行きが怪しくなり、あっという間に大雨になってしまった。
 そのおかげで、撮った写真は全体的に灰色っぽくなってしまったのは残念である。

基本的に城の写真をより美しく撮影したい場合、どの城であっても、天気がいいに越したことはないだろう。
 ただし、海岸平城であるこの今治城の場合、その美しさは、快晴の日とそうでない日との差は天と地ほどの差があるように思える。
 かねてより書籍やネットで見ていた今治城の写真は、ほとんどが、青空に映える白い建造物群と高石垣が、 広大な水堀の水面に映っているものだった。  雨模様のこの日は、水堀の水面にそういった景色が映ることもなく、 あらかじめ見ていた美しいものとは、かけ離れた写真しか撮れなかったのは間違いない。 機会があれば、快晴の日にまたここを訪れたいものだ。

ところで今治城は、あの藤堂高虎が生涯に手がけた17の城の一つであることは有名である。  高虎といえば、加藤清正と並び、「築城の名手」と呼ばれ、私のようなにわか城郭ファンであっても、 幾度となくその名前を耳にして知っている。
 私は、この藤堂高虎について以前から気になっていたことがある。
 多くの書籍やサイト等で、藤堂高虎が生涯に手がけた城は、17あると記されているのだが、 果たしてその17の城とは、どの城を指すのかということである。
 あちこちで調べてみたが、具体的に17の城を列挙している書籍やサイトは見つからなかった。
 というのも、この「手がけた」という表現が実に曖昧で、それが主に、築城あるいは、縄張した城だけを指すのか、 あるいは、築城助工、改修、修理助役、手伝い、修復などをした城まで含むのかで、 その数は大きく違ってくるからである。
 さらに、慶長2年(1597年)、慶長の役で朝鮮に宇喜多秀家らと築いた、順天倭城などを含むかどうかということや、 京都聚楽第などを城に含めるか否かなどで、その数も大きく違ってくる。  書籍やサイトによっては、その数が18であったり、20前後であったり、あえてはっきりした数を示さずに、 「多くの城」という表現であるなど、実にまちまちである。
 何にせよ17とか18とか、あえてはっきりした数字を示すなら、それがどの城からどの城を指すのか列挙して欲しいものである。

以下で、藤堂高虎が、生涯で手がけたと思われる城、あるいはそれに近いものを、可能な限り列挙してみた。
 (※)ここでいう手がけたとは、築城や縄張から、築城助工、改修、修理助役、修復、手伝いなどまでを含む。

和歌山城、大洲城、宇和島城、大和郡山城、膳所城、伏見城、江戸城、今治城、丹波篠山城、丹波亀山城、津城、二条城、伊賀上野城、粉河城、駿府城、大坂城、 出石城、聚楽第、猿岡山城、津城、淀城、粉河城、赤木城、順天倭城、膳所城、甘崎城、灘城、駿府城、高槻城・・・・

高虎は軍事や行政を行いながら、少なくともこれらの城を手がけたわけだから、凄いの一言につきる。

初回訪問日&撮影日 2015年03月03日

(※百名城スタンプ設置場所)
今治城天守閣

@武具櫓

平成19年(2007)に再建


A左から武具櫓、天守、山里櫓


B山里櫓

二の丸北西隅の二重櫓。 名前の由来は城内の庭園「山里」の方向に位置するため。 平成2年(1990)に再建。


C西隅櫓台石垣と多聞櫓

石垣の周りにある細長い平地は、「犬走」といい、地盤を強化するために設けられたという。


D山里櫓と山里門


E西隅櫓台から南隅櫓台にかけての石垣と内堀

内堀は幅が50〜70mもあり、敵の弓による攻撃が届かない距離になっている。  また、石垣は9〜13mもあり、砂の上に建つ石垣としては驚異的な高さである。  このように藤堂高虎は、城の形が単純であるが故の守りを固める工夫を随所に散りばめた。


F南隅櫓台石垣と内堀

今治城の堀は海につながっていて、ボラやチヌなど海水魚がたくさん泳いでるが、 堀底から真水が湧いているところがあり、メダカなどの淡水魚もいるのだという。


G月見櫓跡


H御金櫓

二の丸東隅の二重櫓。 金蔵の役割を果たした櫓。 昭和60年(1985)に再建された。


I鉄御門

入城口


J鉄御門

平成19年(2007年)、可能な限り江戸時代の史実に基づき、 石垣や多聞櫓5棟ともに復元された。


K藤堂高虎像

平成19年(2007年)9月に建立された。  築城の名手、藤堂高虎が手がけた城は、今治城を含め、和歌山城、宇和島城、篠山城、伊賀上野城など、枚挙にいとまがない。  高虎は、血筋がよくなかったが、軍事面では命を惜しまず戦い、津藩の行政を支えた才能を発揮し、 そして何よりも、各地の築城を任されるほどの名建築家として数々の名城を築き上げて、実力でのし上がり、 一国の主となった。  


L櫓門


M天守

創建時の五層天守は、史上初の「層塔型」天守で、本丸の中央付近に建っていたとされ、 慶長15年(1610)に丹波亀山城(京都府)に移築されたという。  それに対して現在の天守は、「望楼型」の構造であり、本丸跡の北隅に昭和55年(1980)に再建された。  亀山城天守の古写真を参考にしたとされているが、亀山城にはない意匠が随所に施されている。  所謂、模擬天守である。

交通アクセス

JR予讃線「今治」駅から瀬戸内バス「今治営業所行き」で約10分
「今治城前」下車、徒歩約3分

駐車場 有り

ドライブ難易度
非常に易しい(★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
どのアクセス方法でも問題ない

住所
〒794-0036 愛媛県今治市通町3-1-3

地図中の79番

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