国宝 久能山東照宮 本殿・石の間・拝殿 (静岡市駿河区)


左より拝殿、石の間、本殿


拝殿


本殿


久能山東照宮
本殿・石の間・拝殿
国宝
1617年(元和03年)

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(歴史)

久能山(標高216m)と日本平はもともと、太古の海底の隆起によってできたもので、 長い年月の浸食作用等のために硬い部分だけが残り現在のような孤立した山になったが、 昔は久能山と日本平は続いていたという。
 推古天皇の頃(西暦600年前後)、久能忠仁が始めて山を開き寺を建立し観音菩薩を安置。  補陀落山久能寺と称したことから、久能山の名称もこれから起こったといわれる。  久能寺はその後、行基や円爾をはじめとした多くの名僧が往来し隆盛を極めたが、嘉禄年間(1225年頃)に山麓の失火によって類焼し、 元の面影はなくなった。
 永禄11年(1568)には武田信玄が、久能寺を北矢部(現静岡市清水区、今の鉄舟寺)に移し、この要害の地に久能城を築いた。
 天正10年(1582)に武田氏が滅びると、駿河の国一帯が徳川氏の領有になったので、久能山も徳川氏の領有となる。  元和2年(1616)4月17日、徳川家康の死後久能城は廃止され、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、 元和2年12月(1617年1月)2代将軍秀忠によって東照社(現・久能山東照宮)の社殿が造営された。

その建立された社殿は、本殿、石の間、拝殿の3棟から成るいわゆる権現造りの形式をもつ複合社殿で、 江戸幕府大工棟梁中井大和守正清の代表的な遺構のひとつである。  江戸時代を通じて権現造社殿が全国に普及する契機となった最古の東照宮建築として、平成22年に国宝に指定された。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

この日は今年2月に静岡県内の史跡巡り巡りをした際に、バスの運行時間がすぎて巡りそびれてしまった、国宝・久能山東照宮を参拝することにした。  前回と同じ失敗をしないために今回は、朝一で新幹線に乗りJR静岡駅に到着。 すぐにしずてつジャストライン・日本平線バスに乗り、 終点「日本平ロープウェイ」バス停に到着した。
 早速ロープウェイ乗り場へ行くと、日本平と久能山を結ぶロープウェイは、10分〜15分間隔で頻繁に出ていたので、すぐにそれに乗り込み久能山へ。  この日は平日であるにもかかわらず、私以外に7人の初老の紳士・淑女がロープウェイに乗っており、久能山に到着すると皆 真っ先に久能山東照宮の拝観受付の方へ歩いて行った。
 私はすぐには受付に向かわず、まずは売店の記念メダル自動販売機の場所へ向かった。
 この記念メダルとは、茶平工業製造の、全国の主な観光地、博物館、水族館、動物園、フェリー、 博覧会会場などで販売している、その裏に名前と日付を入れることができる懐かしのメダルのことである。
 このサイトで今まで一度も述べたことは無かったが、実は私は、この記念メダルのコレクターでもある。  今まで巡った寺院や神社、城郭以外にも、様々な観光地でこの記念メダルの自販機を見つけると、必ずといっていいほど購入してきたので、 たまりにたまって、今では置き場に困るぐらいである。
 私はこの記念メダルを購入しても、絶対に名前と日付を入れないことをこだわりにする。  なぜなら名前や日付を入れていしまうとメダル自体の価値が下がりそうだからなのだが、 はたしてこの記念メダルに希少価値が付く日は訪れるのだろうか。
 ところでこの久能山東照宮の記念メダルは、メダルを装着することができるキーホルダーとセットになっているので少し高めである。
 昔、ファミコンの人気ゲームのカセットを買うのに、欲しくないクソゲーカセットとセットで買わされたのを思い出し少しイラっとした。

さて、いよいよ参拝料を支払い、待ちに待った久能山東照宮参拝である。
 久能山東照宮には、国宝の社殿(本殿・石の間・拝殿)以外も、実に13棟もの重要文化財に指定された建造物がある。  私は新幹線やバスの車内でスマホ見ながら、それら建造物のことを予習していたので、すべてをもらさず見学し、 写真に撮っていった。
 久能山東照宮の建造物は朱色のものが多く、その中のいくつかは極彩色の美しい彫刻が施されていた。  特にメインである、国宝・社殿(本殿・石の間・拝殿)は、大変煌びやかであり美しく、それらに見とれた私は、 社殿の周囲を何度も行ったり来たりしてしまった。
 しかしそれでもガイドには、『日光東照宮に比べると地味であるが・・・』と記されており、 いつか行くであろう日光東照宮の拝観も楽しみだと心躍らせた。
 ただ一つ残念だったのは、社殿の一部と唐門が工事中のため、ネットが張られていたことだ。
 工事が終わればまた来たいと思うが、例によって未訪問の国宝建築の方を先に優先するので、それはいつになることやらわからない。

ところで久能山東照宮で私は、国宝社殿以外に、実はもう一つ見ておきたい史跡があった。  それは五重塔跡である。 久能山東照宮にはかつて、日光東照宮同様、五重塔があった。  しかし明治6年に神仏分離により取り壊されたのだという。 現在は礎石のみが残っていた。

私は当サイトで何度も、日本の歴史ある貴重な文化財を蔑ろして大量に破壊した明治政府政治家たちの、その救いようのない蛮人ぶりについて述べてきたが、 この無惨にさらされた五重塔の礎石を見て、再び激しい怒りがこみ上げてきた。
 もし久能山東照宮の五重塔が現存していたら、日光東照宮の五重塔同様、徳川氏ゆかりの大変貴重な塔として、 間違いなく重要文化財に指定されていただろう。  それを神仏分離という、薄っぺらで中身を持たない愚策により、無にしてしまったその蛮行。
 もはや、明治政府は、日本文化の歴史において最悪の癌細胞だったという以外、言葉が見つからない。
 現在の学校教育では、田舎藩士あがりの明治政府政治家たちの、癌細胞であるそういった側面や、 幕末には放火・略奪・強姦・強殺によって多くの人々を犠牲にし、 こともあろうか天皇のいる御所に大砲を打ち込むという、長い日本の歴史でありえない暴挙を行ったという事実には全く目をつぶり、 まるで彼らが日本の古い体制を打破した日本近代化の立役者であるかのように教育してきた。
 そのせいで、いまだに薩長土肥下級武士を英雄視する日本人が多いのは、非常に残念なことである。

次の目的地は、愛知県西尾市にある国宝・金蓮寺弥陀堂でる。


初回訪問日&撮影日 2016年09月14日

(※国宝建造物撮影ポイント)
外観撮影自由

@日本平ロープウェイ「日本平」駅

日本平ロープウェイは、昭和32年5月31日に開業した、名勝地日本平から、国宝・久能山東照宮を結ぶ 全長1,065mのロープウェイである。


A「日本平」駅展望台にある絆の鍵モニュメント

錠前を専用の柵に掛け、恋人の聖地「絆のモニュメント」に鍵を納めることによって二人の愛は永遠に。  ロープウェイ切符売り場で「絆の鍵」が購入できる。


B絆の鍵

「絆の鍵」にはそれぞれ恋人たちの名前やメッセージが書かれ、永遠の愛を誓っていた。  あなたも愛する人とこの地に訪れ、「絆の鍵」に永遠の愛を誓ってみてはいかが ?
 静岡エリアのふじのくにエンゼルパワースポットの一つ。


C「日本平」駅から「久能山」駅に向けて出発するロープウェイ

約5分間の空中遊覧で、晴れた日には遠く駿河湾の彼方には東に伊豆半島、西は御前崎が望める。


Dロープウェイからの眺め

この日は雨ではなかったが、曇り空だったのであまり眺望はよくなかった。


E久能山東照宮博物館

徳川家康を御祭神とする久能山東照宮に付属する歴史博物館。 徳川家康の日常手沢品がまとまっており、 徳川歴代将軍の武器・武具が充実していた。 中でも家康が西洋諸国との外交・交易で得た舶載の品々は必見で、 特に洋時計はその保存状態、重要性の高さから重要文化財に指定されている。
 当然のごとく館内撮影禁止である。


F楼門(重要文化財)

前面に御水尾天皇のご宸筆「東照大権現」の額が掲げてあるので勅額御門とも称する。  元和3年(1617)の建造である。


G楼門背後の鳥居

久能山東照宮には、国宝に指定された社殿(本殿・石の間・拝殿)以外に、楼門をはじめとした13棟の建造物が重要文化財に指定されている。  とりあえずそれらすべてを写真で紹介していくことにする。


H五重塔跡

三代将軍家光による建立で高さは約30mで、輪かん美を極めたものだったという。  明治6年神仏分離で取り払われ現在は礎石を残すのみ。 中央の朝鮮蘇鉄は駿府城本丸より移植したもの。


I鼓楼(重要文化財)

元和3年(1617年)に建てられた鐘楼で、袴腰付きの桁行3間、梁間2間、切妻造り、妻入の本瓦葺きの建物。  明治の神仏分離の際、鐘楼は仏教施設であるということから太鼓に替え、「鼓楼」という名称になったのだという。


J神厩(重要文化財)

家康公の愛馬を飼育するために建てられた厩舎。


K神楽殿(重要文化財)

久能山東照宮の神楽殿は神楽は行われず、武家奉納の絵馬を掲げたとされる。


L神庫(重要文化財)

神庫(ほくら)は、東照宮への奉納品をここに納めていたと伝わっており、奈良の正倉院と同じ校倉造りの建物。  梁の部分に社殿と同様細かい彫刻が施されている。


M末社日枝神社本殿(旧本地堂)(重要文化財)

大山咋神を祀る。  元々は、薬師如来像を安置するための薬師堂だったが、『神仏分離令』を受け、明治3年12月に 仏像が大正寺へうつされ、山中にあった山王社のご神体を治めたと伝わる。


N東門(重要文化財)

元和4年(1618年)に建造。  社殿同様の極彩色の朱塗りが施されている。


O廟門(重要文化財)

社殿などのように鮮やかな極彩色や朱塗り、彫刻はされておらず、黒塗りの門になっている。  これは徳川家康公を祀る墓所、つまりは「静」の場に向かう門であるためといわれている。


P玉垣(透塀)(重要文化財)

久能山東照宮の玉垣には、唐獅子が多く彫刻されておりその他にも、鳥類や動物、想像上の動物が彫刻されている。


Q唐門(重要文化財)

唐門は元和3年(1617年)に建てられたもの。 社殿の前に繋がっており社殿同様、極彩色の漆塗りが施されている。  この日は工事中だった。


R神饌所(重要文化財)

神饌所(しんせんじょ)は正保4年(1647)の建築で、中心社殿手前の参道脇に建つ。  平面は、桁行5間、梁間3間、入母屋造、銅瓦葺で、内部は、神饌を調える2部屋を配し、渡廊で本殿前面の石の間に接続している。


S渡廊(重要文化財)

渡廊は元和3年(1617)に建てられた22間朱塗りの建造物で、社殿石の間と神饌所を結んでいる。  門の両側には鮮やかな彩色の彫刻を見ることができる。



21.廟所宝塔(神廟)(重要文化財)

本殿の裏約50mのところにあり家康の遺命により遺骸を埋葬し、西向きに建てられている。  当初この地には小さな祠が建てられていたが、3代家光により現在の石造の塔に建てかえられた。  そのことから江戸時代は御宝塔と呼ばれ、明治時代以降は神廟と呼ばれる。  塔は高さ5.5m外廻り8mの石造りで、参道には諸侯奉納の石灯籠が並ぶ。




22.社殿の本殿部分(国宝)

社殿の様式は本殿・拝殿を石の間で接続した「権現造り」で、 当時最高の建築技術・芸術が集結されている。




23.社殿の拝殿部分(国宝)

江戸時代には20年に1回、明治時代では50年に1回の塗り替えが行われており、近年では2010年に塗り替えられている。



24.社殿の拝殿部分(国宝)

久能山東照宮は、家康没後に徳川秀忠が命じ1年7ヶ月という短期間のうちに建てられたのだという。


25.社殿の石の間部分(国宝)

権現造りは、本殿と拝殿の2棟を一体化し、間に「石の間」と呼ばれる一段低い建物を設けているのが特徴。 石の間造りとも呼ばれる。

アクセス
静岡駅北口からしずてつジャストライン・日本平線「日本平ロープウェイ」行き終点下車、 日本平ロープウェイ「日本平」駅から約5分。

駐車場 有

国宝建造物巡礼ドライブ難易度(★★)

(★)・・・・・・・・・・非常に易しい
(★★)・・・・・・・・易しい
(★★★)・・・・・・ふつう
(★★★★)・・・・難しい
(★★★★★)・・非常に難しい

国宝巡礼おすすめアクセス方法
バス利用の場合は便数が少なく、あまり遅い時間まで運行していないので、あらかじめ時刻表を調べておいたほうがいい。


静岡市駿河区根古屋390番地

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