国宝 専修寺 如来堂 (津市一身田町2819番地)




如来堂(国宝)

専修寺
如来堂
国宝
延享05年(1748年)

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(歴史)

専修寺は、浄土真宗10派のうちのひとつの真宗高田派の寺院で、山号は「高田山」。  本山は三重県津市一身田町に、本寺は栃木県真岡市高田にあり、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。  「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づく。
 浄土真宗の開祖、親鸞は、関東各地の教化に入って十余年たったころ、明星天子の夢のお告げを得て、54歳のとき栃木県真岡市高田の地に一宇を建立し、 専修念仏の根本道場とした。 本尊には、長野の善光寺より迎えた一光三尊仏を安置し、聖人門弟の中のリーダーであった真仏が管理に当たる。

第十世真慧は、東海・北陸方面に教化を弘めると共に、朝廷の尊崇を得て、専修寺は皇室の御祈願所となった。  一身田の専修寺は1469年〜1487年に、その真慧上人が伊勢国内の中心寺院として建てた。  関東の本寺が兵火によって炎上したりしたため、歴代上人がこちらに居住するようになり、こちらが本山として定着した。  本山専修寺の伽藍は二度の火災に遭ったが再建されている。

如来堂は、屋根を一重の裳階付とし、仏殿らしい各種の装飾を多用する本堂である。  亨保6年(1721)に着工してから27年かかって、寛延元年(1748)に完成。 棟梁は近江八幡の名匠高木但馬である。  間口25.66m、奥行26.62m、入母屋造で向拝三間付。 本瓦葺阿弥陀如来立像を本尊とする。  建築面積は御影堂に比べるとおよそ半分程であるが、屋根を二層として、棟の高さを御影堂とほぼ等しくして、本堂としての威容を示している。 この外観は二階建てに見えるがそうではなく、下層の屋根は裳階と呼ばれる三種の庇になっている。  上層の屋根の軒の組み方を見ると、垂木は二股で、それが扇形になっていて、それを四手先という複雑な組み物で受けている。  これらの軒組みは、柱と柱の間にも置かれている、いわゆる『詰組』で、典型的な禅宗様(唐様)建築といえる。  また尾垂木という部材の先端を象・龍・獏の彫刻としたり、下層のかえる蟇股には中国の故事に基づいた人物の彫刻が組み入れたりするなど、手の込んだ精巧な建築物になっている。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

平成29年(2017年)11月28日、三重県津市の真宗高田派寺院、専修寺の建造物である「御影堂」と「如来堂」の2件が、 揃って国宝に指定され、同日付けで官報告示された。 県内では54年ぶりの国宝であり、また、建造物としては初めての国宝となる。
 私は当時このニュースを知り、自分の自宅がある大阪から車で気軽に行ける三重県津市という場所に、 2件もの建造物が新たに国宝に指定されたということに心躍り、すぐにでも見学に行きたいという 衝動に駆られた。 しかし、既婚者で二児の親ともなると、なかなか見学に行く機会はなかった。  そうこうしているうちに、更に翌年には、前年度の三重県とはうって変わって、 関西の私にとっては、とてもじゃないが気軽に行ける場所とはいえない、 沖縄県の玉陵(たまうどぅん)という、琉球王朝の王族の陵墓が新たに国宝指定さてしまった。  「されてしまった」とは言い方が悪いが、残り数か所で達成される国宝建築巡りコンプリートの 道のりが、ますます遠のいてしまったということを意味する「されてしまった」なのである。
 とにもかくにも、いつでも行けるとたかをくくっていた専修寺であるが、国宝指定から およそ1年半を経て、ようやく見学に行けることになった。

大阪から車を走らせ1時間30分程度専修寺の駐車場に到着。  まずは唐門をくぐり、正面に如来堂が見え、更にその横に、如来堂よりも大きな御影堂があった。  この2棟の国宝建築を見て私は、それらの想像してた以上のデカさに何よりも驚いたものである。  御影堂は言うに及ばず、如来堂に関しても、裳階付きであるので2層の建造物に見えることにより、 見た目的には御影堂に引けをとらない迫力だった。
 こういった2棟の巨大建築が横並びに建っている寺院は?と聞かれて、真っ先に思い浮かぶのが、 京都の西本願寺の御影堂、阿弥陀堂(共に国宝)であろう。  他に、国宝指定はされていないが、同じく京都の東本願寺の御影堂、阿弥陀堂も巨大木造建築として 知られている。
 後で専修寺公式サイトを見て知ったのだが、特に専修寺の御影堂の方は、 全国の寺院木造建築の中で5番目に大きいということである。
 五番目ということは、東大寺金堂や、東本願寺、西本願寺の御影堂、阿弥陀堂の次に大きいという ことなのだろうか・・・。
 昔からの性分で私は、そのように「5番目に大きい」といったフレーズを見せられると、 どうしても、1番から4番までに大きい木造建築は何なのか知りたくなってしまう。
 なので、ネットで様々なサイトを検索するも、なかなか納得のいく 「木造建築大きさ順位」を示しているサイトを見つけられず、非常にもやもやした気分にさせられた。
 そこで私は、自分で日本全国の巨大寺院木造建築のサイズを調べ、 自分の納得のいく順位表を自分で作成してみることにした。
 その結果がわかり次第、専修寺御影堂の項目でレポートしようと思う。
 であるから、御影堂のページの「国宝建築訪問日記」に関しては、それが出来上がるまで 空白になっているのでご了承いただきたい。


初回訪問日&撮影日 2019年05月01日

(※国宝建造物撮影ポイント)
外観は自由に撮影可能

@唐門(重要文化財)

如来堂の正面に建つ門で、文化6年(1809)に木挽きが始まり、文政10年(1820)に地築き、天保15年(1844)に棟上げをしている。  檜皮葺屋根の本体は総欅造。 控柱4本が腰長押から下で、斜め外に踏みだした形になっている。  菊、ぼたんの透かし彫り、親子獅子や力士の彫刻など、全体に華麗で複雑な構造となっている。  造営時には、檜皮葺か本瓦葺の2案が検討されていたらしい。  大工の棟梁は近江八幡の高木作右衛門光規、同光一の2代で、光規は如来堂を建立した人物(高木但馬)の 孫にあたる。


A山門(重要文化財)

御影堂の正面にあり、専修寺の総門にあたる。 2階建、間口20m、奥行9m、高さ15.5mと大規模で、 正面柱間5間で、そのうち3間に扉を付けて入り口とし、二階内部には釈迦三尊像を安置。  下層の組物は大仏様の形式をとり、挿肘木が斗にのらず直接柱に挿し込まれる形になっている。  全体の形式は京都の東福寺三門(国宝)を参考にしたと思われるが、裏側で3間分だけ屋根が 張り出している点(裏向拝)は他に類をみない珍しい手法である。  瓦の刻銘その他の史料によると、元禄6年(1693)ごろから建築にとりかかり、 宝永元年(1704)頃に完成したと思われる。


B御廟唐門及び透塀(重要文化財)

御廟唐門は文久元年(1861)の建築で、屋根は檜皮葺、長押や柱の間や扉などは美しい 彫刻で埋め尽くされている。 左右に連なる透塀も同時に造られたもので、腰回りに スイセン、ハス、タンポポなどの草花の彫刻が付けられている。


C御廟拝堂・御廟唐門及び透塀(重要文化財)

正面の御廟唐門から御廟拝堂、石橋と続き、その奥に親鸞の墓「御廟」があり、 それを取り囲むように専修寺歴代住持の墓が配置されているのだという。  御廟拝堂は瓦の銘文により安政5年(1858)の建築と考えられ、屋根の4面に千鳥破風を付け、 正面軒に唐破風を付けている。 内部の床は、瓦の接ぎ目を斜めにした、いわゆる四半敷で敷かれている。  親鸞の墓「御廟」は寛文12年(1672)専修寺に伝えられていた親鸞聖人の遺骨5粒を埋めて造られたものだという。


D茶所(重要文化財)

間口18.45m、奥行13.21mの木造平屋建て。 正面向拝一間、軒唐破風付で本瓦葺の湯茶の接待所である。  宝暦10年(1760)頃に建造されたとみられる。


E鐘楼(重要文化財)

一般的な鐘楼建築と同様、1間四方で、入母屋造の屋根をのせている。  4隅の柱は、先を内側に倒した四方転びという形式である。 その間には、 八角形の柱が2本ずつ入れられている。 肘木の先を大仏様風にするなど、全体的に 東大寺の鐘楼に似たイメージを与える。 正徳元年(1711)の刻銘が発見されたので、 その頃に再建されたものと思われる。


F御対面所(重要文化財)

入母屋造の妻入、向拝唐破風。 5室ずつ3列の座敷からなる建物で、周囲に廊下をつける。  もともとの建物は天明3年(1783)11月6日に火災により焼失したので、ただちに再建され、 天明6年(1786)10月2日に落成遷仏が行われたことが同年の『御堂目録』によって確認される。


G進納所・大玄関(重要文化財)

建立年代は殿舎が焼失した天明3年(1783)の火災の後、対面所と共に再興されたもので、寛政2年(1790)の再建と伝えている。  再建当初は対面所の東に位置し正面を東に向けて建っていたが、明治11年(1878)に現在の位置に移築され、 その際に正面を南向きに改めている。


H太鼓門(重要文化財)

境内の東入口となる門。 平屋建ての長屋門の上に三層の櫓をのせ、その最上階に大太鼓を吊っているのでこの名がある。  現在の建物の建築年は不明だが、宝暦12年(1762)ころと推定される木版絵図には、現在地に一層だけの櫓をのせた太鼓門が描かれている。  そして、文久元年(1861)の親鸞聖人600年忌法要の記念事業記録の中に太鼓門を三層に嵩上げした、という記事があるから、 このときに大改造されと推測される。


I御影堂(国宝)

詳細はリンク先へ


J通天橋(重要文化財)

御影堂と如来堂を結ぶ廊下で、両御堂の縁側にかかっているため高床とし、板張りで、柱間はすべて吹抜けになっている。  全長31,86m 幅6,79m 唐破風造で本瓦葺。 昭和大修理時に、天井裏から棟札が発見され、それによると、寛政12年(1800)11月6日の上棟で、 棟梁はそのころ名匠として知られていた名古屋の伊藤平左衛門吉俊であった。


K如来堂(国宝)

その発願は享保4年(1719)、着工は翌々6年で、資金難から工事が渋滞し、ようやく元文5年(1740)から地築にかかったのだという。  しかし、地盤が軟弱なために寛保3年(1743)8月まで満三ヵ年を要したので、勘六という老人が人柱に立ったとされ、東南隅の礎石にある刻銘は、その時の記念と言われている。  ただし、その真偽を確かめる史料は現存していない。
 上棟は延享元年(1744)3月24日、落成遷仏は寛延元年(1748)7月18日、棟梁は近江八幡の高木但馬、脇棟梁は白塚の長谷川十右衛門と浜田の村田喜太郎と伝わる。

アクセス
JR一身田駅徒歩約5分

駐車場 有

国宝建造物巡礼ドライブ難易度(★)

(★)・・・・・・・・・・非常に易しい
(★★)・・・・・・・・易しい
(★★★)・・・・・・ふつう
(★★★★)・・・・難しい
(★★★★★)・・非常に難しい

国宝巡礼おすすめアクセス方法
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津市一身田町2819番地

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