日本100名城 037番 一乗谷城(―) 福井県福井市




日本100名城 037番
一乗谷城(―)
国指定特別史跡、国指定特別名勝
写真上は唐門(江戸時代中期頃に再建されたもの)
写真下は発掘整備された朝倉館跡

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(歴史)

一乗谷城とは、戦国大名朝倉氏の館と、城下町、4つの山城を含む縄張りを指す。
 朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国した。  朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに一乗谷に本拠地を移し、斯波氏、甲斐氏を追放して越前を平定。  以後5代103年にわたって越前の中心として繁栄し、応仁の乱を逃れてきた京都の文化人などが多く下向するなど、 北陸の小京都と呼ばれるまでに至った。 しかし、天正元年(1573)、織田信長に敗れた朝倉氏は滅び、 その軍勢により放たれた火によって城下町は灰燼に帰してしまったという。


(100名城訪問日記)

ソフトバンクのCMでもお馴染みになった一乗谷。
 一乗谷朝倉氏遺跡の復元された町並みや、朝倉氏館跡などに 多くの観光客が訪れるのどかな雰囲気の場所である。
 戦国時代には 『北ノ京』 と呼ばれるほどの美しい文化が育まれて、一万人以上を数えた町だったという。
 しかし、その美しかった一乗谷も、朝倉氏が織田信長に敗れたことにより、その軍勢によって三日三晩、火を放たれ、 殲滅。
 朝倉氏一族は滅んでしまう。
 信長の軍勢は、一乗谷の町に火を放つ時、比叡山焼き討ちの時のように、罪のない民衆を、老若男女区別なく大量虐殺したのだろうか?

過去に朝倉義景に仕え、一乗谷を第二の故郷とした明智光秀であるが、一乗谷の城下町を壊滅させられたことへの怨みが、信長を本能寺で討つという、 大胆な行動へ導いた原因の一つであったとしても、何ら不自然ではないだろう。
 とかく明智光秀は、信長を討った謀反人、三日天下などと、揶揄される傾向が強く、 それに対して信長は、独裁的決断力や、古き権威やしきたりを排し、常に新しさを求めるその合理性などにより、 現在でも『理想の上司』などと崇められ、英雄視される傾向が強いといえるだろう。
 しかし、不器用で、一乗谷に火を放つことや、比叡山の焼き討ちなどに反対し、いつも損な役回りばかりを引き受けてきた光秀の方が、よっぽど人間味があふれており、 どんなに業績があげられなくても、どんなにトップに好かれなくとも、『理想の上司』であると思う。
 これはあくまで私の個人的な考えであり、独裁的で部下のミスを決して許さず、気に入らない者を ことごとく切り捨ててきた、合理主義者、信長を「理想の上司」だと考える人を、決して否定する訳ではない。
 そもそも、戦国の世と現在の価値観を一緒に考えること自体ナンセンスであり、信長と光秀、それから朝倉義景のうち、誰が正義で、誰が悪だったのかなど、 今となっては誰にもわからない。
 しかし、ただ一つはっきり言えることは、かつてこの場所で、今ののどかな風景からは想像もできない目を覆いたくなるような惨劇が繰り広げられたということだ。
 私は、越前一国の中心都市と言われるほどの栄華を誇った一乗谷の城下町が、三日で焦土にされたその惨状を、のどかな雰囲気の史跡を見ながら 想像することはできなかった。

初回訪問日&撮影日 2013年06月01日

(※百名城スタンプ設置場所)
「復元町並」入場受付

@「復元町並」入場受付付近

入場受付にて100名城スタンプを押印。


A復元町並み

当時の武家屋敷、町屋が原寸大で再現されている。  かなり広範囲である。


B復元された町屋内部

小規模な建物が細く並んでいた。平面復原地区、城戸の近くもびっしりと町屋が並んでおり、人口密度が相当高かったとされる。


C復元された武家屋敷内部

現在、復原町並内に10軒の町屋が復元され、裏庭、井戸、厠なども再現されている。


D武家屋敷内部

史料等を参考に、30坪の主殿を中心に門、庭園、蔵、納屋、井戸、厠まですべてが再現されている。


E唐門

復元町並み見学後、 朝倉館跡へ向かう。 その入口にこの唐門がある。


F唐門

一乗谷朝倉氏遺跡と言えば、真っ先にこの唐門の写真が紹介されるぐらい有名な建造物ではあるが、朝倉氏の遺構ではなく、 のちに建てられていた松雲院の寺門として、朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わるものである。  現存するものは江戸時代中期の再建。


G朝倉館跡

第5代当主朝倉義景が住んだ館の跡で、6,500u程の敷地があり、三方は土塁と濠で囲まれている。 常御殿、主殿、 会所、茶室、花壇のほか、台所、厩、蔵などが整然と配されていたという。


H館跡庭園

義景館跡東側山際にあり、力強い滝石組、護岸石組みを持ち、その洗練された石組みは京都との交流が偲ばれるという。


I湯殿跡庭園

義景館跡を見下ろす高台にあり、一乗谷で最も古い庭園である。 本来は池の水があるのだが、この日は干上がっていた。


J諏訪館跡庭園

諏訪館は義景の妻「小少将」の館で、その庭園は遺跡の中でも最も規模が大きいものである。


K朝倉孝景墓(英林塚)

孝景は初めて一乗谷に築城し、繁栄の基礎をつくり上げた人物である。


L南陽寺跡

南陽寺は、朝倉一族により創建され、3代貞景が再興したと伝わる尼寺である。 永禄11年(1568)春、5代義景が 足利義昭を招き、観桜の歌会を催したことで知られる。


M南陽寺跡庭園

滝添石に挟まれて三段の滝が組まれ、力強い石組みだった。

交通アクセス

JR越美北線「一乗谷」駅から徒歩30分。
JR北陸本線「福井」駅から京福バス東郷線で約30分「武家屋敷前」下車すぐ

駐車場 有り

ドライブ難易度
非常に易しい(★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
電車は本数が少ないので、自動車によるアクセスがおすすめである。

住所
910−2153 福井県福井市城戸ノ内町ほか

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