(歴史)
いのちの塔はもともと、1990年4月1日に開幕した国際花と緑の博覧会のシンボルタワーとして建てられた。
花博開催当時は、生命の大樹・いのちの塔出典実行委員会により、「生命の大樹・いのちの塔」のパビリオン名で出展されており、
「地球ふしぎ・生命ふしぎ」をテーマにしていた。
その円筒形の塔は「生命の大樹」を表しており、全国の子供から一般公募された約1500点の図案を
もとにして川崎清により設計された。
1990年9月30日に花博が閉幕した後、1992年4月に花博記念公園鶴見緑地の展望塔として再オープン。大阪市の外郭団体により運営されてきたが、2010年3月31日をもって展望塔としての営業が休止された。
ただし、塔そのものは鶴見緑地のシンボルとして、今後も残る予定であるということである。
(タワー訪問日記)
1970年に開催された『日本万国博覧会』当時まだ生まれていなかった私にとって、
最も印象に残っている博覧会は何かと尋ねられたら、
1990年に開催された『大阪花と緑の博覧会(EXPO90)』とこたえる。
花博開催1990年当時、私は高校3年生。
そのある意味、青春時代最後ともいえる『高校3年生』という年齢の年に、
自宅から自転車で気軽に行ける鶴見緑地公園という場所で、
大々的に開催された国際博覧会が『大阪花と緑の博覧会(EXPO90)』だったのである。
当時の私は、大学受験を控えていたにも関わらず、そんなのおかまいなしに、様々な友人たちと、
数え切れないほど地元で開催されたこの国際博覧会に通った。
(そのせいかどうかはわからないが、私は結局、人に言うのも恥ずかしいような、
現在Fラン大学と呼ばれている大学しか受からなかったわけだが・・・)
休みの日や放課後、時には学校をサボって行ったが、会場への交通手段は常に自転車。
その道中、自転車に乗りながら、友人たちとした他愛のない会話も、今となってはいい思い出だ。
その友人たちの大半とは既に疎遠になっており、中には行方不明になった者や、亡くなった者もいる。
もう二度と会うことはないであろう当時の友人たちと、
時間が経つのも忘れて巡った花博会場での思い出は、くさっても私の青春そのものの一つだったと言って間違いない。
当時花博は、今では考えられないほどの規模と内容で開催されていた。
坂本龍一の音楽に乗って100万個の光源の中を「ルミナー号」に乗って進む、
『ひかりファンタジー電力館』や、一分間に1億円以上かけて制作された
全天周3DフルカラーCG映像がメインの、『富士通館』などといった、当時の最先端の技術を駆使して
つくられたパビリオンの数々に加え、立ち乗りジェットコースター『風神雷神』や、
数十人が座る床が360°回転する『レインボー』などをはじめとした、
巨大遊園地並の乗り物数を誇った遊園地エリア、『マジカルクロス』などなど・・・。
今にして思えば1990年という年は、いわゆる1991年に起こったバブル崩壊前に、バブルが最大限まで膨れ上がり、
破裂寸前ではあったが、人々はまだそれに気づかず浮かれているという、ある意味、
バブル時代最後の年だった。
そんな年に開催された大阪花博は、非常にギラギラとしてて、派手で高価であり、
そんなある種の虚構じみたその雰囲気は、いかにもバブル時代的だったなと記憶する。
その183日間の会期の最終日である9月30日。
パビリオンは既に全て終了しており、マジカルクロス内でも、ほとんどの乗り物が運転を終了し、
残すところ『レインボー』のみとなったときのことである。
マジカルクロス会場中のスッタフやコンパニオンたちが、
『レインボー』の前に集合し、当時流行っていた『おどるポンポコリン』のメロディーに乗せて踊り始めたのである。
いつしかそれを見ていた入場客も入り乱れて、電飾で光り輝く『レインボー』の周囲はすごい人だかりになっていた。
それはさながら、光の屋外ダンスパーティー。
スタッフたちは全員が号泣していた。
長く熱かった花博の終了と、
ともに盛り上げた仲間たちとの別れを惜しむように。
そのお互いのやり遂げた感をたたえ合って涙する風景は、当時の私にとってとても新鮮で、美しいものに見えた。
バブル時代という、今後二度とやってこないかもしれない好景気の最後の年に開催された博覧会の運営に参加し、
盛り上げるという貴重な経験は、もう体験することはできないだろう。
そう考えると、今にして思えば彼らの涙は、
EXPO90の終了、ひいては、バブル時代そのものとの別れを意味していたようにも思えてきた。
周知の通り、EXPO90終了後、日本は、1991年にバブルが崩壊し、それから「失われた20年」という時代に
突入した。
「失われた20年」が終了した現在も、雇用は回復傾向があるとはいえ、
GDPは依然低成長であるなど、日本に明るい兆しは見えてこない。
家族連れで賑わう鶴見緑地公園内で、現在も残るこの『いのちの塔』は、既に営業を休止しており、
まるでバブル時代の忘れ形見のように寂れてひっそりとたたずんでいる。
公園内で子供と遊んでいる若い親たちの中で、この『いのちの塔』が光り輝いていた『EXPO90』と、
日本がまだ元気だった頃のことを覚えている者は、はたしてどれぐらいいるのだろうか。
私は広場で娘と遊びながらふと、『いのちの塔』を見上げ、当時のことを思い出しながらいつまでも考えていた。
『大阪花と緑の博覧会(EXPO90)』は、
その入場者数は23,126,934人で、国内で開催された国際博覧会入場者数としては、
『日本万国博覧会』の 64,218,770人に次いで第二位の多さであり、開催地の大阪府民のみならず、
日本国中の人々が訪れ、日本中で盛り上がっていた。
・・・はずではあるのだが、当時のテレビの東京制作全国放送と、大阪地方ローカル放送とでは、
その盛り上がりのギャップが、あまりにも激しかったのを覚えている。
というのも、大阪地方ローカル放送では、タージンをはじめとしたローカル芸人たちが開催中の花博を盛り上げ、
開催期間中には花博専門の番組まであり、毎日のように会場の様子を放送していたのに対して、
東京主体の全国放送では花博のはの字も出てこない。
むしろ、オープンして何年も経っている東京ディズニーランドの特集の方が多かったほどである。
そしてたまに花博のことを放送したと思えば、花博期間中初期の頃に起こった、
ウォーターライド事故の映像をいつまでもしつこく流し、
『アクシデント続出。大丈夫か花博?』などと、
まるで事故の影響で花博そのものが盛り上がらっていないかのような偏向報道ばかり・・・。
そして全国放送で年末によくやる『1990年の重大出来事ベスト20』などといった茶番な企画で、
国内博覧会歴代2位の入場者数を誇った大阪花博は何位だったかといえば、
10位ぐらいに、『事故続出のうちに幕を閉じた大阪花博・・・』 などという、
余計なマイナスイメージのコメントを添えてのランクインだった。
当時、私はそれを見て、怒りを通り越して、呆れてしまった。
所詮、中央のマスコミたちにとって、
地方で開催される博覧会など、どんなに入場者数が多くて盛り上がっていても、
わざわざ撮影に行ってテレビで取り上げる価値も無いということである。
いや、それだけならいいのだが、少しでも何か不祥事があれば、鬼の首を取ったかのように、
そのマイナスイメージばかりを取り上げ、とことんまでたたきつぶそうとする。
それはまるで、印象操作により、入場者数そのものを減らそうとし、
最終的に視聴者に、『大阪花博の入場者数は少なかった』 というイメージを植え付けようとしているとしか思えないほど、
あまりに酷いものだった。
当時は今と違って、インターネットなど普及しておらず、視聴者は、テレビから一方的にたれ流される情報を
鵜呑みにし、間違っていると思ってもそれに意見することはできなかった。
それが今では、インターネットの普及により、
今まで好き勝手に、偏向報道をしてきたテレビ局や新聞といったマスコミのメッキは見事に剥がされ、
視聴者や読者は、その偏向報道に対して戦う手段を得た。
そのことにより最近では、当時に比べて、所謂、『地方下げ』 の偏向報道に関しては
少しは減ってきたとは思うが、それでもまだまだ、マスコミは政治や国際問題において、
サヨク的な偏向報道をやめようとしない。
視聴者たちはもうとっくの昔に気づいているというのに・・・。
それを改めない限り今後、国民のテレビ離れ、新聞離れはますます加速するだろう。
初回訪問日&撮影日 2017年05月11日