日本100名城 074番 岩国城(横山城) 山口県


再建天守


天守台跡


空堀跡


日本100名城 074番
岩国城(横山城)
文化財史跡区分無
天守 1962年(昭和37年)再建

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(歴史)

関ヶ原の戦い後、岩国へ転封された毛利氏の一族、吉川広家が築いたのが岩国城である。 吉川広家はまず慶長8年(1603)に着工し、同13年に完成した。  その城は、横山山頂の城郭部分と、山麓にある居館から構成され、 居館と城下は錦帯橋で結ばれていた。 しかし完成からわずか7年、 元和元年(1615)の一国一城令によって天守を始め山上の建物や石垣は破却。
 現在の天守は昭和37年に、錦帯橋から見えるように本来の場所から50mずらした場所に再建されたものである。


(100名城訪問日記)

錦帯橋・岩国城へ来るのはこの日(2015年5月28日)が二度目。 5年前に来た時は、錦帯橋から横山山上に聳える岩国城天守を見上げただけだった。  それでは当然、岩国城へ来たことにはならないので、この日は100名城スタンプの押印も兼ねて、半日かけて岩国城の史跡を見学することにした。
 5年前は、バスツアーの行程の一つとして錦帯橋メインの見学だったので、自由行動も限られていたが、この日は、中年男の日帰り一人旅。  誰にも気兼ねすることなく、自由にあちこち見て回れた。
 思えば5年前に参加したこのバスツアー・・・。 一泊二日で、錦帯橋をはじめとして、厳島神社や、尾道、瑠璃光寺五重塔など、 数多くの史跡を巡ることができて、その当時としては非常に有意義だったのだが、いかんせん、バスツアーでは、その他の行程も分刻みで びっしり決まっているので、それぞれの史跡の見学時間が短くなりすぎて、満足のいく見学ができず、 結局はそれらの史跡のほとんどを、数年かけて再訪問するハメになってしまった。
 結論としては、少なくとも自分の趣味である、仏塔、国宝建造物、城郭巡りに関しては、多少旅費がかかってでも、 バスツアーよりも、自由ツアーで行くべきだということが分かった。

ところでこの岩国城天守。 日本三名橋の一つ、錦帯橋越しに聳える横山の山上に堂々と建つその姿は、山口県でも指折りの、絶景観光スポットであると いえるだろう。 ただし、この復興天守は、史実とは全く異なる場所に建てられたものだということは、城好きの人なら誰でも知っていることである。
 実際ロープウェーで上がってみると、その復興天守から50メートルほど離れた場所に、実際の天守台跡の立派な石垣が残っていた。
 これほど立派な天守台跡が残っているのに、なぜこの上に復興天守を建てなかったのかと、通常なら考えてしまうところである。  しかし、実際の天守台跡に天守を建ててしまうと、山の麓からその天守の姿を全く見ることはできないので、 現在の『錦帯橋越しに聳える横山山上岩国城天守』という、日本でも有数の絶景スポットが存在しえなかったのも事実だ。
 岩国城天守の復興が決まった際は、史実忠実復興派と、景観重視復興派とで、揉めに揉めた議論がなされたであろうことは容易に想像できる。
 通常、城の天守を復興する場合、可能な限り史実に基づいた復興がなされるべきなのは、当然のことなのだが、たまには、岩国城天守のように、 ある種の遊び心がある復興があってもいいのではないかと私は思う。


訪問日&撮影日 1回目 2010年03月31日 2回目 2015年5月28日

(※百名城スタンプ設置場所)
岩国城受付窓口

@錦帯橋と岩国城天守

2010年03月31日撮影分。


A錦帯橋から見た岩国城天守

2010年03月31日撮影分。  景色としては、桜の花が咲き乱れていた5年前訪問時のほうが美しかった。


B錦帯橋と岩国城天守

2015年5月28日(2回目)撮影分
錦帯橋は、御土居と城下町を結ぶため、延宝元年(1673)に建造された他に例を見ないアーチ型五連の 木橋である。 現在のものは1953年(昭和28年)に再建されたものである。 日本三名橋の一つに数えられる。


C岩国城天守

4重6階の南蛮造りの天守


D錦帯橋を渡ったすぐそばの土産物屋

平日のこの日は人影もまばら。  五年前に来た時はもっとたくさんの人々で賑わっていて、 友人と男ふたりでソフトクリームを買って食べながらくつろいでいた記憶がある。


E香川家長屋門(山口県文化財)

香川家長屋門は、岩国藩家老香川氏の表門である。


F佐々木小次郎像

なぜこの地に佐々木小次郎の像があるのかというと、 錦帯橋で燕返しを編み出したとする、吉川英治の小説の創作による部分が大きいらしい。  実際に岩国にゆかりがあるのかどうかは分からない。


G旧目加田家住宅(重要文化財)

目加田家は、近江国愛知郡の出で、天正年間に吉川元春に召抱えられ、吉川広家が 岩国に移封された時に広家に従ってこの地に移り住んだ中級武家である。  この住宅は18世紀後半の建築と推定され、全国でも数少ない中級武家の住宅として、昭和49年に 重要文化財に指定された。


H吉川家墓所

岩国藩主 吉川家墓所は、岩国藩三万石(後に六万石)を領有した吉川家一族の墓所である。  墓所内には、6代藩主経永を除く藩主の墓があり、山口県の指定史跡に指定されている。


I初代藩主吉川広家の墓

初代藩主広家の墓は、奥の山を少し登った場所にある。


J錦雲閣

吉香神社境内南隅にあり、旧藩時代には三階建の南矢倉があった所に、明治18年(1885)居館跡が 公園になったとき、この絵馬堂が建造された。


K吉香神社(重要文化財)

吉家神社は、岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀る神社で、現社殿は、享保13年(1728)横山の白山神社内に 造営され、明治18年(1885)に旧城跡の現在地に移築されたものである。 鳥居、神門、拝殿及び幣殿、本殿が南から北に一直線に並んだ構成になっていて、それら建造物それぞれが 重要文化財に指定されている。


Lロープウェー山麓駅


Mロープウェーから見た町並み


N大釣井

この大釣井は、慶長13年(1609)築城と同時につくられたもので、非常時の武器弾薬等の収納をはかるとともに、 敵に包囲されたり、落城の危機にさらされた場合の脱出口を備えた井戸であったとも伝えられる。(立て看板より)
 脱出口ということは、この巨大な穴はどこか別の離れた場所に通じていたのだろうか?


O天守台跡

天守台の石垣は、大きめの石と、隙間に詰めた小さめの石からなり、隅部の角石には算木積みの技法が 見られる。 その隅部には反りがなく、ほぼ直線上の稜線に仕上げられており、 見かけの美しさよりも構造力学上の安全性に重点を置いた造りになっている。  本丸の中心的建物である天守があった場所であり、 平成6年(1994)に発掘調査をおこない、往時の姿が多く残されていたため、平成7年、8年に復元工事を 行った。


P空堀跡

この空掘は、幅19.6m、深さ10mと、日本最大の箱掘り構造で、明らかに敵の鉄砲による攻撃を意識して 造られたものである。 石垣は空堀の部分には築造されていない。(立て看板より)
 木々が生い茂り、昼でも薄暗いなかなか雰囲気のある史跡だった。


Q大手門と石垣


R石垣

城内の北の丸跡、二の丸跡、本丸南側など、あちこちに数多くの石垣が残っている。


S復元天守

昭和37年(1962)、錦帯橋付近からの景観という理由により、旧天守台から南へ約50m 移動されて建てられた。 その外観は「伝、岩国城建地割図」をもとに再現されたものである。


21.天守閣内部

天守内部では、数多くの刀が展示されたいた。


22.天守閣最上階からの眺め

もし、史実に基づいて本来の天守石垣に天守を復元していたら、見える景色も大きく異なっていたことだろう。

交通アクセス



100名城巡りドライブ難易度 (★★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
公共機関でも自動車でもロープウェーに乗らなければ行けない。
状況に応じてどちらでもいいだろう。
住所
山口県岩国市横山3

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