日本100名城 072番 郡山城(―) 広島県安芸高田市


本丸及び櫓台跡


三の丸の崩落した石垣跡

日本100名城 072番
郡山城(―)
文化財史跡区分(国指定史跡)

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(歴史)

郡山城は、南北朝時代、安芸国吉田荘の地頭職として定着した毛利氏が本拠とした山城である。  城は、はじめ郡山東南の一支尾根だったが、毛利元就(1497〜1571)の時には郡山全山に拡大され、 270もの曲輪を持つ西日本最大級の中世山城が完成した。  その城域は、東西約1.1km、南北約0.9kmで、南側の山麓には内堀が巡り、城内には270段余りの平壇や、 大通院、洞春寺、常栄寺、満願寺などの寺院がある。
 元就の孫輝元は天正17年(1589)、近世城郭・広島城築城に着工。 天正19年(1591)、 輝元は広島城に本拠を移し、さらに関ヶ原の合戦後の国替えにより廃城となる。


(100名城訪問日記)

この日は戦国期を代表する山城であり、毛利氏の本拠地として知られる郡山城跡を見学するために、 広島県安芸高田市までやってきた。
 通常なら日本100名城1ヶ所だけでなく、これに可能な限り仏塔や国宝建築など、 他の史跡の見学をからめてくることが多いのだが、 この日の見学は郡山城のみ。 理由は郡山城がかなりハードな山歩きを要する山城であるということと、 近辺に未見学で見学したい史跡が残っていないことが挙げられる。
 この日の行程についてであるが、まずは新幹線に乗りJR「広島」駅で降りた後、広電本線に乗り換え、紙屋町西駅に到着。  駅前の広島バスセンターから、「吉田行き」バスに乗車し、約1時間30分後「安芸高田市役所前」バス停に到着下車、 徒歩約5分で歴史民俗博物館に行き見学し、その後、そこから本丸跡まで約45分の山歩きという内容である。

山城郡山城を攻略するにあたって、その山歩きによる体力の消耗は覚悟していたのだが、まず最初に体力を消耗したのは 山歩きではなく、約1時間30分もの時間を有するバス旅だった。  普段乗り慣れていないバスである上に、観光バスと違って普通の路線バスなので、その座席の硬さと狭さにより、 乗車後ものの数10分で腰や足腰が痛くなってしまった。
 やっと「安芸高田市役所前」バス停に到着し、フラフラしながら安芸高田市歴史民俗博物館の方へ歩いていき、 スタンプ押印後、館内見学。 バス旅の体力回復のため普段よりじっくりと時間をかけて、 郡山城や毛利氏の歴史について予習しておいた。

館内でバス旅の体力を回復した私は、いよいよ本丸まで片道約45分の山歩きをスタート。  すると歩き始めてものの10分もしないうちに、汗まみれになってしまった。  この日は10月だというのに日差しが強く非常に暑く感じた。  山の中だから紫外線は強くないと思って日焼け止めは塗ってこなかったのだが、山の中であるにも関わらず、 真っ赤に日焼けしてしまった。

必死の形相で息を切らせながらやっとのことで本丸跡に到着した私は、山城としては非常に珍しい集団に遭遇した。
 地元小学生の遠足(あるいは社会見学?)の集団である。
 郡山城は、小学生の遠足で来るにはあまりにハードな山城だと思われるが、小学生たちは全く疲れた素振りも見せず、 皆でワイワイしゃべりながらちょうど本丸跡から下山していくところだった。
 私はベンチに座ってその小学生集団が通り過ぎるのを待っていたら、 その集団の一人の男子小学生が私に向かって、「こんにちは」と挨拶をした後、話しかけてきた。

まず、「どこから来たのですか?」と尋ねてきたので、私は、「大阪から来たよ。」と答えた。
 するとその男子小学生はさらに、思いもよらないことを聞いてきた。

「大阪って何県ですか?」

・・・私は一瞬、言葉を失ってしまった。

広島県の子供にとって大阪の知名度はそれほど高くないのか、 それともその男子小学生があまり賢くないのか、短い刹那に色々考えたのち、 「大阪は県じゃなくて府やで。 大阪府や。」と返答。
 するとその男子小学生は、イマイチ腑に落ちない表情で下山していった。
 その男子だけでなく、会話を聞いていた他の小学生たちも、その男子の突拍子もない内容の質問に ツッコミを入れる様子もなかったので、よく分かっていなかったのだろうか?  それともどうでもよかったのか?
 なんとなく残量感が残ったまま私は本丸を見学したのち、登ってきた山道とは別方向、 満願寺跡や、旧本城跡の方向へ下山していった。

山は上がるのに比べて下りていくのは楽なので、私はハイペースでどんどん下山していった。
 だから先ほどの小学生集団にもすぐに追いつくだろうと思いながら歩いていたが、 既に小学生集団は、その影も形も無くなっていた。
 小学生の体力恐るべしといったところだ。

私は満願寺跡を見学後、旧本城跡へ立ち寄るために、そちらの方へ歩いて行ったのだが、 旧本城跡方向の山道は、ここまでの山道と違い、立て看板とかも少なく非常に狭くてわかりづらかった。  やっとのことで旧本城跡に到着し見学後、そこからもと来た山道に下りようとした時、 私はぬかるみに足を滑らせ、ズボンが泥だらけになってしまった。
 今日一番の難所は、旧本城跡へ向かう山道。 皆さんもこの場所にはくれぐれも注意していただきたい。

やっとのことで麓に下り、バス停に行き、再びバスに乗り込む。  しんどい山歩きの後の、また1時間30分の苦痛のバス旅かと心が折れそうになったが、バス旅中は爆睡。  目が覚めたら広島バスセンターに到着していた。


訪問日&撮影日 2016年10月04日

(※百名城スタンプ設置場所)
安芸高田市歴史民俗博物館

@バス停から見た郡山

標高390m。その山頂を中心にかつては約1km四方にわたって尾根筋に曲輪がひろがっていたという。


A安芸高田市歴史民俗博物館

100名城スタンプ設置場所。


B毛利元就火葬場跡

毛利元就は、元亀2年(1571)6月14日に75歳で逝去した。 遺骸は、翌15日大通院に移し、 正殿に安置。 法名を日頼洞春と称した。 三原妙法寺の住職嘯岳鼎虎禅師を招聘し、6月20日初七日の法会を 営んだ後、この火葬場で荼毘に付したという。 この火葬場跡は、3間四方を石垣で囲み、 中に栂の木が植えられたいたが、昭和46年に枯死したのだという。


C毛利隆元墓所

毛利隆元は、毛利元就の長男として大永3年(1523)、多治比猿掛城内で生まれた。  幼名を少輔太郎といい、天文6年(1537)人質として山口の大内氏に送られ、その年の元服には 大内義隆の加冠で隆元と称した。 以後天文10年(1541)19歳で帰還するまで大内氏に優遇を受けた。 天文15年(1546)24歳で家督を相続し、三年後には、内藤興盛の娘を(義隆の養女)を夫人とし、 天文22年(1553)に長男幸鶴丸(輝元)の誕生をみる。  永禄期、九州の大友氏と交戦していたが、講和成立後、尼子氏攻略のため、元就がいる出雲に 応援のため多治比に一時帰還した。 郡山城には入らず、出雲に出発、途中安芸佐々部で和智誠春の 饗応を受けたが、まもなく発病、翌朝未明に41歳、永禄6年(1563)急逝した。 菩提寺は常栄寺である。


D百万一心碑

元就の「百万一心」の伝説を記念して昭和6年に石碑が元就墓所境内に建立された。  その伝説とは、郡山城の改修に際して、元就が人柱に代わり「百万一心」と彫った石を埋めさせると 工事がうまくいったというものである。


E毛利元就・一族墓所(洞春寺跡)

元亀2年(1571)、元就は75歳の生涯を閉じた。 翌年この地に菩提寺洞春寺が建立され、境内に墓が建てられた。  下段には、先祖の合墓と、元就の兄興元、興元の長子幸松丸、隆元夫人の墓が並ぶ。
 毛利元就は、明応6年(1497)、弘元の次男として誕生後、猿掛城で青年期を過ごしたが 兄興元とその子幸松丸の相次ぐ死亡により27歳で家督を相続する。  以後、大内氏と尼子氏の勢力圏の狭間で巧みな調略を用いて次第に安芸の盟主となる。  弘治元年(1555)、厳島合戦で、周防の陶氏を破り戦国大名へと成長し、 永禄9年(1566)、尼子氏を降伏させて中国一円を支配下においた。


F嘯岳鼎虎禅師墓

嘯岳鼎虎禅師は筑前博多の人で二度も明に渡り修行を積み、永禄3年(1560)帰国後は、丹波高源寺、京都建仁寺、 そして南禅寺などを歴任した。 元就は生前使を出し、禅師をしばしば吉田に招き入れていた。  元就逝去に際して、禅師は葬儀の導師をつとめ、元就の菩提寺洞春寺の開山にもなった。  慶長4年(1599)10月5日没。 この墓は天明8年(1788)山口洞春寺により建立した。


G御蔵屋敷跡

御蔵屋敷跡は、東西20m、南北30m、面積600uの広い敷地を持つ。  勢溜の壇と釣井の壇を繋ぐ曲輪であり、幕命により江戸初期に崩された石垣がそのまま残る。


H三の丸下通路の石垣跡

三の丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯曲輪との間に築かれた石垣。 城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されたが、 この部分では当初の石積みをわずかに留めている。 帯曲輪から三の丸への通路は高さ約4mの石垣を斜めに登る 階段状となっており、虎口曲輪的な三の丸西の段への入口とみられる。


I二の丸跡

二の丸は、本丸の南につながり、約2m低く北西にある通路でつながっている。  東西36m、南北20mの広さであるが、周囲を高さ0.5m、幅1mの石塁や石垣で27mと15mの方形に区画しており、 実用面積は約400uと本丸よりひとまわり小さい。


J本丸及び櫓台

本丸は、郡山の山頂に位置し、一辺約35mの方形の曲輪になっている。  その北端は一段高くなった櫓台がある。 櫓台は長さ23m、幅10mの広さで現状は破損が著しい。  この地点が一番高く、標高389.7m、比高約200mになる。


K本丸跡

城の遺構は、山頂本丸曲輪群を中心に放射状にのびる6本の尾根、さらにそれからのびる6本の支尾根、 あわせて12本の尾根と、それらに挟まれた12本の谷を曲輪や道で有機的に結合させた複雑な構造をなす。  曲輪は大小合わせて270段以上。 大永3年(1523)に毛利元就が郡山城を相続し、郡山の南東にあった旧本城を、 郡山全山に城郭を拡大していった。 元就はここを本拠城として、中国地方の統一を成し遂げる。


L釣井の壇の井戸跡

現在枯れているが、城内に残る石組の井戸としては唯一のもの。 本丸に最も近い水源である。  現在は埋れて深さ約4mになって水は湧いていないが、土を掘ればかつてのように水をたたえると思われる。  釣井の壇は、長さ75m、幅15m、面積約1000uの長大な曲輪である。  曲輪の基部には石垣が見られ、北に姫丸の壇、南は御蔵屋敷に通じ、ここから東側2段上が本丸である。


M満願寺跡

築城以前から存在する寺院跡。 三の丸の西南で御蔵屋敷の南、難波谷を登りつめたところに位置する。  石組の方形の蓮池2ヶ所や寺の礎石などが残る。 寺伝によると天平12年(740)に行基菩薩が当地に来て、 可愛川釜ヶ淵で、小さな観音を得て、自ら大きな千手観音木像を彫刻し、満願寺を建て、 これを安置したことに始まる。 毛利氏の移城に伴い、広島に移り、さらに荻城内に移っていたが、 現在は防府市にある。


N尾崎丸の堀切

尾崎丸は隆元が本城から移り住んだと伝わる。 長大な曲輪の背後を掘切っている。


O本城の本丸

郡山の南東麓にあり、建武3年(1336)毛利時親が吉田荘地頭として城を築いて以来元就が郡山全山を城郭とするまで、 11代約190年間毛利氏が本城とした城である。  旧本城は、背後を3本の堀切で画し、半島状の尾根を独立させたもので、長さ約400mの尾根の上部長さ約200m、 面積約4000uを直線的な階段状に利用した、鎌倉時代の山城の形態がよくわかる城跡である。  頂部本丸は、標高293mで、一辺約37mの平地の背後には櫓台跡があり、南に二段の付曲輪がある。  二の丸は、本丸の東下方約9mにあり、その東に三の丸とよばれる二段の平壇がある。

交通アクセス

広島バスセンターから「吉田行き」乗車、「安芸高田市役所前」下車、徒歩約5分で歴史民俗博物館。  そこから本丸跡まではさらに約45分。

駐車場 有

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
歴史民俗博物館には無料駐車場があるのでそこまでは自動車によるアクセスがいい。
住所
〒731-0501 広島県安芸高田市吉田町吉田字郡山



地図中の72番

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