(歴史)
高山寺の開創は、聖徳太子であると伝わり、弘法大師が再興したともいわれている。
その後豊臣秀吉の紀州征伐によって焼き討ちされたので、それより以前の古い堂塔は残っておらず、
境内で最古の多宝塔は、文化年間(1804〜1818年)に建てられたものである。
この多宝塔は、本瓦葺で、下重正面に「上宮閣」の額を掲げており、内部には、厨子入りの聖徳太子立像を安置する。
また、熊野出身の世界的博物学者である南方熊楠の菩提寺としても知られ、彼の神社合祀反対運動のきっかけとなった
日吉神社があった。
(仏塔訪問日記)
この日は快晴。 絶好の仏塔巡り日和だったので、まだ未訪問であった高山寺多宝塔と、白浜金閣寺五重塔を見学するために、
和歌山県田辺市、白浜町方面へドライブすることにした。
とはいえ、この日は夏休みも突入した三連休の二日目ということもあって、道中の高速道路は大変混雑しており、
本来なら最初の目的地である高山寺へは、大阪の自宅から2時間程度で着く予定が、
3時間以上もかかってしまった。
駐車場に車を停め、階段を駆け上がると、広々とした境内に、非常に美しい多宝塔が聳え建っていた。
この多宝塔。 塔そのものの美しさもさることながら、周囲が広々とした芝生で囲まれており、正面が逆光にならないので、
その写真写りは抜群である。
天気の良さも相まって、仏塔では久しぶりに満足のいく写真が撮れた気がする。
ところで話は大幅に脱線するが、この高山寺というお寺、
あの世界的博物学者である『南方熊楠』の菩提寺としても有名だということである。
この『南方熊楠』という偉人の名前、実は、私が高校生の頃からとてもよく知っていた名前だった。
いや、私に限らず、日本全国で、主に現在、30代半ばから40代後半の男性の中で、この人の名前を知ってる人は、
結構多いのではないかと推測する。
なぜそう思ったのか・・・。 その根拠は、今から25年前、1990年まで遡る。
当時の私は、偏差値の低いとある公立高校に通うごく普通の高校生で、
友人たちと話す話題といえば、もっぱら、『週刊少年ジャンプ』に掲載されていた
『ドラゴンボール』をはじめとした連載漫画についてなどだった。
1990年当時の週刊少年ジャンプといえば、発行部数が初めて500万部を突破し、
所謂、『ジャンプ黄金期』と呼ばれた時代の真っ只中とも言える時期だった。
当時の連載陣は、『ドラゴンボール』を筆頭に、『SLAM DUNK』、『幽遊白書』、『ろくでなしBLUES』、
『ジョジョの奇妙な冒険(第3部)』、『DRAGON QUEST ダイの大冒険』、『花の慶次-雲のかなたに-』、『魁!!男塾』、
『ジャングルの王者ターちゃん』・・・などなど、今では考えられないほど豪華な顔ぶれである。
当時青春時代をすごした若者たちは、ネットやスマホが無くても、それらジャンプ黄金期の連載漫画のおかげで、
友人同士の会話に事欠くことは無かった・・・。 それほど『ジャンプ黄金期』はすごかったのである。
そんなジャンプ黄金期の真っ只中に、彗星のごとく現れた新連載漫画があった。 『てんぎゃん -南方熊楠伝-』である。
『てんぎゃん -南方熊楠伝-』は、和歌山県出身の世界的粘菌学者南方熊楠の、
幼少期から青年期のアメリカ時代にかけてを描いた実録漫画であるが、自身の幼少期のあだ名でもあった、『てんぎゃん』(天狗)との
出会いを描いたりと、少年誌向けにフィクション部分も織り交ぜられており、『週刊少年ジャンプ』1990年50号から1991年10号まで連載されていた。
先ほど記した黄金期の連載陣を見てもわかるとおり、当時はいわば、バトル漫画全盛期である。
新連載でありふれたバトル漫画が始まっても、話題にものぼらぬうちに、あっという間に打ち切られる時代だ。
そんな中に、突如として現れたのが、偉人伝記漫画、『てんぎゃん -南方熊楠伝-』である。
その、学校の図書館にあってもおかしくない内容の新連載漫画に、当時の少年たちは少なからずインパクトを受け、
「てんぎゃんって何ぞや?」とか、「南方熊楠ってだれ?」とか、
違った意味で話題になった。 そして、楠木(クスノキ)という名字の同級生が、一時的に『クマグス』というあだ名で呼ばれたりと、
『南方熊楠』という偉人の名前が、その当時の少年たちの脳裏に深く焼き付けられたことは間違いない。
この日の高山寺仏塔巡りで、私は、たまたまここが、『南方熊楠』の菩提寺であると知り、その『南方熊楠』という文字を見た瞬間、
学生時代に見た『週刊少年ジャンプ』のことや、更には、その学生時代の友人たちのことや出来事などが、走馬灯のように思い出された。
高山寺に滞在した時間は、たかだか20分程度だが、とてもノスタルジックな気分にさせられた20分間だった。
初回訪問日&撮影日 2015年07月19日