日本100名城 049番 小谷城(―) 滋賀県長浜町本丸跡の石垣 山王丸跡の大石垣 黒金御門跡 日本100名城 049番 小谷城(―) 国指定史跡 写真上は本丸跡の石垣、写真下は山王丸跡の大石垣 HOMEに戻る |
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(歴史)小谷城は、北近江に台頭してきた浅井亮政が、大永年間(1521〜28)に、伊吹山系小谷山(標高495m)に
築いたのが始まりとする。 その後、融和政策に努めた2代城主・浅井久政を経て、
戦国の動乱を生き抜き、織田信長に対しても怯まず戦い続けた3代城主・浅井長政の代に、最終的に信長によって落城した。
(100名城訪問日記)この日は久しぶりの好天に恵まれ、それほど暑くもなく、絶好の城巡り日和だった。
・・・文章が長くなりそうなので、続きは下の各画像の説明文で・・・。 初回訪問日&撮影日 2015年04月29日
(※百名城スタンプ設置場所)小谷城戦国歴史資料館 |
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@小谷城戦国歴史資料館駐車場から見た小谷山 歴史資料館の奥に聳えるのが小谷山(495m)。 今から徒歩であの高さの山を登るかと思うと心が折れそうになるが、 今回は、最高所495mの場所にある大嶽城跡には時間の都合で行かず、その手前の山王丸跡を目指すことにした。 |
A知善院跡 知善院跡は、 清水谷の入口に位置する、清水谷を守る上で重要な施設である。 小谷城落城後は、秀吉によって 長浜に移されたという。 |
B小谷城戦国歴史資料館 山登りの前に、100名城スタンプの押印と、小谷城の歴史を予習する意味も込めて、資料館へ。 ビデオ映像を見たのと、係員の方の説明を聞いた以外に、 小谷城跡がある小谷山の全体模型があったので、それをじっくり見学して、 各史跡の位置関係を理解するのに役立てた。 |
C追手道スタート地点 いよいよ山登りスタート。 山登りと言っても、山王丸跡までなら片道1時間もかからないので、 変に身構える必要はないかもしれない。 ただし、山中で自動販売機やトイレなどは無いので、 水筒は必携で、トイレは済ませてから行きたい。 あと資料館で張り紙してたのだが、熊が出没する可能性があるので、 熊よけの鈴は持っていったほうがいいとのことである。 私は持って行かなかったが・・・。 |
D磯野屋敷跡 山の入口手前に早速史跡が。 姉川の合戦で活躍した磯野丹波屋敷跡である。 |
E間柄峠跡 大永5年(1525)、六角高頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めた時、越前朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援し、 それに従ってきた武将、真柄備中守が守った場所なので、その名を取って真柄(間柄)峠と呼ばれるようになったという。 この場所に来るまでほぼ何もない退屈な山道だったので、非常に長く感じた。 まだまだ先は長い。 |
F番所跡
かつてはここに登城者の検問所があり、城郭主要部の入口だった。 近くに金吾丸跡もある。
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G虎御前山展望所
この場所では眼下に、信長の本陣があった虎御前山を展望することができ、また、琵琶湖には竹生島をみることができる。
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H御茶屋跡
主郭部最先端の曲輪跡。 比較的広い曲輪が一段あり、曲輪の真ん中を前後に分ける土塁が見られる。
軍事施設後だが、なぜ『御茶屋跡』と呼ばれるのかは分からない。
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I御馬屋跡
三方を高い土塁に囲まれる。 名前のとおり馬小屋があったかどうかは不明ということである。
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J首据石
天文2年(1533)、六角氏との戦いに内通した今井秀信の首を晒したといわれる石。
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K黒金御門跡 両袖に巨石の
群を構えた御門跡。 大広間と称された曲輪の出入り口で、かつては両脇に多聞櫓が構えられていたという。
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L桜馬場跡 御馬屋跡の上方、大広間の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。 西側の曲輪では、建物の礎石が確認されている。 ちなみに、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」のロケの中心地なのだという。 城内随一の大パノラマが広がる。 |
M浅井氏家臣供養塔 桜馬場跡内にある。 |
N大広間跡
「千畳敷」とも呼ばれる場内最大の曲輪跡。 長政の三女であり、後に徳川秀忠の妻となるお江が生まれた場所であるとも言われる。
この場所では様々な建物跡が検出されている。
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O本丸跡南側石垣
江戸時代中期の小谷城跡古地図に、「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。
本丸跡は、南北約40m、東西約25mの広さを持ち、上下二段からなる。 写真の石垣は、大広間側に築かれたものである。
この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘している。
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P大堀切跡 本丸跡の北にある大規模な堀跡。 番所跡から本丸跡までと、その上を区切るためのもの。 |
Q中丸跡 大堀切跡の北側にある曲輪で三段から成る。 それぞれの曲輪に横矢を設ける。 石垣もある。 |
R刀洗池跡 中丸にあり、城内の井戸のひとつだったとされる。 |
S小丸跡
左右二段の曲輪からなる。 二代浅井久政が天正元年(1573)8月27日に自刃した場所とされる。
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21.山王丸跡
山王丸跡は四段からなり、最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていたという。
小谷城の詰めの丸っと考えられ、小谷城絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。
南面に馬出を配し、石垣で固められた虎口を二重に配す。
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22.山王丸跡に残る石垣 城跡にはあちこちで、このような名も無い石垣が残っている。 |
23.山王丸跡大石垣 山王丸跡東斜面に残る大石垣。 「本丸跡南側石垣」や、「黒金御門跡」と並ぶ、 小谷城跡のメインともいえる史跡なので、絶対に見逃さないようにしたい。 ちなみに山王丸跡馬出部分虎口で分かれ道になっていて、そこを右に行った先にある。 道が狭く崖になっているので注意。 |
24.赤尾屋敷跡
天正元年9月1日に浅井長政が29歳の若さで自刃した地。
浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝わり、最後の攻撃を打って出た長政が信長の兵に攻められ、
やむなくここにあったとされる赤尾美作守の屋敷に入り、自刃したのだという。
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25.小谷城マップ この図で見たら、今回は右半分を見学したことになる。 機会があれば、左半分も巡ってみたいものだ。 |
26.歩いてきた山道を引き返す
さて、山王丸跡から引き返し、途中の黒金御門跡近くの分岐点の先にある赤尾屋敷跡を見学し終え、
後は帰るのみとなったわけだが、この時点で時計の針を見ると、11時40分。
私はこの日の午後は京都市内へ戻り、「京都非公開文化財特別公開」で公開されている
非公開の国宝建造物を数カ所見学する予定だった。 そのためには、
河毛駅発米原京都方面行き12時21分発の電車に乗らねばならず、
およそ36分程度で、ここから戦国歴史資料館まで引き返し、さらに河毛駅まで歩いていかなければならなくなった。
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交通アクセス
JR北陸本線「河毛」駅下車。小谷城戦国歴史資料館まで徒歩30分。 さらにそこから追手道ルートを通り徒歩で、本丸までなら約40分、山王丸までなら約45分、 大嶽城跡までなら約1時間15分。 駐車場 山麓駐車場と、伊部林道の登った中腹に駐車場あり。 ドライブ難易度 難しい(★★★★) (★1つ)非常に易しい (★2つ)易しい (★3つ)ふつう (★4つ)難しい (★5つ)非常に難しい おすすめアクセス方法 自動車なら、番所跡、金吾丸跡近くの中腹駐車スペースまで行ける。 そこから本丸跡までなら徒歩約15分なので、 麓から歩くよりはかなり楽である。 ただし、道幅は狭く、林道は通行止めになる場合もあるので要確認。 住所 〒529-0312 滋賀県長浜市小谷郡上町 |
地図中の49番 |