日本100名城 049番 小谷城(―) 滋賀県長浜町


本丸跡の石垣


山王丸跡の大石垣


黒金御門跡

日本100名城 049番
小谷城(―)
国指定史跡
写真上は本丸跡の石垣、写真下は山王丸跡の大石垣

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(歴史)

小谷城は、北近江に台頭してきた浅井亮政が、大永年間(1521〜28)に、伊吹山系小谷山(標高495m)に 築いたのが始まりとする。 その後、融和政策に努めた2代城主・浅井久政を経て、 戦国の動乱を生き抜き、織田信長に対しても怯まず戦い続けた3代城主・浅井長政の代に、最終的に信長によって落城した。
 城の建造物の遺構は全く残っていないが、小谷山内のあちこちで、 自然の地形を巧みに利用した曲輪や、石垣、空堀、土塁などが残っている。


(100名城訪問日記)

この日は久しぶりの好天に恵まれ、それほど暑くもなく、絶好の城巡り日和だった。
 まず、9時18分にJR北陸本線「河毛」駅に到着後、100名城スタンプ設置場所である小谷城戦国歴史資料館へ 徒歩で向かう。 駅前にはレンタサイクルがあったり、バスも運行しているようだったが、 この日は脚力を鍛える意味も込めて、迷わず徒歩にした。  そして25分程度で小谷城戦国歴史資料館に到着し、館内に入って入館料を払うと、 左手に100名城スタンプが設置されていたので、さっさと押印を済ませ、まずは、向かって右側の展示室へ進んだ。  するとそこでは、小谷城の歴史を説明した約10分〜15分?程度のビデオ映像が、エンドレスで流れており、 小谷山城跡ハイキングをする前に、小谷城の歴史をさっとおさらいするためにも、映像をすべて見ておいた。
 私は来る前にも小谷城のおおまかな歴史は、書籍やネット等で予習していたので、 その映像を見たことにより、もう完璧。 さっさと反対側の展示室を見学して、一刻も早く山登りをするつもりでいた。
 なぜ私がそんなに急いでいたのかというと、この日は「京都非公開文化財特別公開」の日で、小谷城見学後は京都市内へ戻り、 国宝・大徳寺本坊と、国宝・下鴨神社本殿を見学する予定にしていたからだ。 それらを見学する時間を確保するためには、 小谷城見学はなるべくスピーディーに終わらせる必要があったのである。
 反対側の展示室に入ると、そこではちょうど今から、年配者グループが、資料館係員に、小谷城の歴史についての 説明を受けるところのようだった。 係員は、私が入ってきたのを見ると、「どうぞ。今から説明しますので、 一緒にお聞きください。」と言い、私は年配者のグループに混ざり、「小谷城の歴史」についての講義を受けることになった。
 その内容は主に、小谷城主、浅井氏3代(浅井亮政、浅井久政、浅井長政)をメインとした、 小谷城築城から廃城までのストーリーだったのだが、係員の人の話は、書籍やネット等で活字として見るよりもはるかに興味深くて面白かった。  いつしか私は、無心でその話に聞き入ってしまい、時間のことをすっかり忘れてしまっていた。  話が終わって時計の針を見ると、既に10時35分に。 私は、河毛駅12時21分発の電車に乗って京都へ戻る予定をしていたのだが、 そのためには、たった1時間45分の間に、資料館から、山王丸跡まで山登りをし、そこからまた資料館まで戻ってきて、 更にそこから河毛駅まで歩いて戻らなくてはならなくなったのである。
 河毛駅発・米原京都方面の電車は、1時間に1本しか運行していないので、12時21分の電車に乗り遅れると、 次の電車は13時21分になってしまう。 そこから京都に戻って、二箇所の寺社巡りをするのは、時間的にまず無理である・・・。
 とにもかくにも、私は急いで資料館を出て、追手道へ向かい、山王丸を目指して、小谷山山登りを開始した。

・・・文章が長くなりそうなので、続きは下の各画像の説明文で・・・。

初回訪問日&撮影日 2015年04月29日

(※百名城スタンプ設置場所)
小谷城戦国歴史資料館

@小谷城戦国歴史資料館駐車場から見た小谷山

歴史資料館の奥に聳えるのが小谷山(495m)。 今から徒歩であの高さの山を登るかと思うと心が折れそうになるが、 今回は、最高所495mの場所にある大嶽城跡には時間の都合で行かず、その手前の山王丸跡を目指すことにした。


A知善院跡

知善院跡は、 清水谷の入口に位置する、清水谷を守る上で重要な施設である。 小谷城落城後は、秀吉によって 長浜に移されたという。


B小谷城戦国歴史資料館

山登りの前に、100名城スタンプの押印と、小谷城の歴史を予習する意味も込めて、資料館へ。  ビデオ映像を見たのと、係員の方の説明を聞いた以外に、 小谷城跡がある小谷山の全体模型があったので、それをじっくり見学して、 各史跡の位置関係を理解するのに役立てた。


C追手道スタート地点

いよいよ山登りスタート。 山登りと言っても、山王丸跡までなら片道1時間もかからないので、 変に身構える必要はないかもしれない。 ただし、山中で自動販売機やトイレなどは無いので、 水筒は必携で、トイレは済ませてから行きたい。 あと資料館で張り紙してたのだが、熊が出没する可能性があるので、 熊よけの鈴は持っていったほうがいいとのことである。 私は持って行かなかったが・・・。


D磯野屋敷跡

山の入口手前に早速史跡が。 姉川の合戦で活躍した磯野丹波屋敷跡である。


E間柄峠跡

大永5年(1525)、六角高頼が浅井亮政を討つべく小谷城を攻めた時、越前朝倉氏の軍奉行朝倉教景が来援し、 それに従ってきた武将、真柄備中守が守った場所なので、その名を取って真柄(間柄)峠と呼ばれるようになったという。

この場所に来るまでほぼ何もない退屈な山道だったので、非常に長く感じた。  まだまだ先は長い。


F番所跡

かつてはここに登城者の検問所があり、城郭主要部の入口だった。 近くに金吾丸跡もある。
 自動車で来た人は、だいたいこのあたりから登城できる。 それほど暑い日ではなかったが、既に汗だく状態だった。 
 ここまでそれほど主要な史跡があった訳でもないので、自動車で来てもよかったかもしれない。


G虎御前山展望所

この場所では眼下に、信長の本陣があった虎御前山を展望することができ、また、琵琶湖には竹生島をみることができる。
 浅井長政と織田信長の戦いについては、先ほどの資料館で学習済みだったので、この景色もより興味深く 見ることができた。 また、秀吉に深い関係がある竹生島が近くに見えたりと、北近江というこのエリアは、 歴史上、非常に重要な意味を持つ場所だったといえるだろう。
 このあたりまで来ると、興味深い史跡も徐々に増えてくる。  先程までの退屈な山登りの疲れも吹き飛び、ワクワクしながら早歩きで登っていった。


H御茶屋跡

主郭部最先端の曲輪跡。 比較的広い曲輪が一段あり、曲輪の真ん中を前後に分ける土塁が見られる。  軍事施設後だが、なぜ『御茶屋跡』と呼ばれるのかは分からない。
 ここまで来ると、祝日であることも手伝ってか登山者もかなり増えてきた。  これだけ人が多いと、逆に熊のほうが怖がって近寄ってこないのではないだろうか。 熊が怖いという人は、人が多い土日祝に登山することをおすすめする。


I御馬屋跡

三方を高い土塁に囲まれる。 名前のとおり馬小屋があったかどうかは不明ということである。
 写真では分からないが、御馬屋跡の左側には観光客が10〜20人ほどもいて、ガイド人が熱心に説明をしていた。


J首据石

天文2年(1533)、六角氏との戦いに内通した今井秀信の首を晒したといわれる石。
 様々な激戦の舞台となった小谷城では、こういった血なまぐさい史跡も残る。 薄暗い時間に一人できたらかなり怖いと思う。


K黒金御門跡

両袖に巨石の 群を構えた御門跡。 大広間と称された曲輪の出入り口で、かつては両脇に多聞櫓が構えられていたという。
 この黒金御門跡はある意味、城跡内で最も形がはっきりした史跡だといえるかもしれない。


L桜馬場跡

御馬屋跡の上方、大広間の前にある曲輪で、細長く左右二段からなる。 西側の曲輪では、建物の礎石が確認されている。  ちなみに、大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」のロケの中心地なのだという。 城内随一の大パノラマが広がる。


M浅井氏家臣供養塔

桜馬場跡内にある。


N大広間跡

「千畳敷」とも呼ばれる場内最大の曲輪跡。 長政の三女であり、後に徳川秀忠の妻となるお江が生まれた場所であるとも言われる。  この場所では様々な建物跡が検出されている。
 ちなみに先程から『曲輪』という城郭用語が頻出しているが、『曲輪』というのは、 城の縄張の『本丸』、『二の丸』などと称された区画のことである。 だから史跡と言っても、山の中に 少し広い区画が現存しているというだけのことなので、写真を見ただけでは、これが城跡なのかどうかピンとこないかもしれない。


O本丸跡南側石垣

江戸時代中期の小谷城跡古地図に、「天守共 鐘丸共」と記されており、鐘丸がその機能を表していると考えられる。  本丸跡は、南北約40m、東西約25mの広さを持ち、上下二段からなる。 写真の石垣は、大広間側に築かれたものである。  この本丸跡に『戦国大攻城戦』では二層天守が築かれていた可能性を指摘している。

 やっと本丸に到着である。 この本丸跡南側大石垣は、小谷城跡を紹介する書籍やネットにおいて、 メインでその写真が使われることが多く、100名城スタンプのイラストもこの石垣である。


P大堀切跡

本丸跡の北にある大規模な堀跡。 番所跡から本丸跡までと、その上を区切るためのもの。


Q中丸跡

大堀切跡の北側にある曲輪で三段から成る。 それぞれの曲輪に横矢を設ける。 石垣もある。


R刀洗池跡

中丸にあり、城内の井戸のひとつだったとされる。


S小丸跡

左右二段の曲輪からなる。 二代浅井久政が天正元年(1573)8月27日に自刃した場所とされる。

 二代久政といえば、六角氏に対して徹底した従属姿勢をとるなど、その弱腰外交に家臣たちが反発。  六角氏に大勝した3代長政に家督を取って代わられ、強制的に隠居状態にされた人物である。  一時は竹生島に幽閉されていたりしたが、小谷城落城寸前まで生きていたとは意外だった。  六角氏に対してあれほど弱腰であったにもかかわらず、織田信長との同盟には隠居状態の身でありながら終始反対し続けるなど、 理解できない点も多い。
 小谷城陥落の原因は、表舞台で戦い続けた3代長政よりもむしろ、影で発言権を持ち続けた2代久政なのではないかとさえ 思えてくるのだが考えすぎだろうか。


21.山王丸跡

山王丸跡は四段からなり、最頂部に山王権現(現小谷神社)が祀られていたという。  小谷城の詰めの丸っと考えられ、小谷城絵図には山王丸から清水谷に向けて搦め手道が描かれている。  南面に馬出を配し、石垣で固められた虎口を二重に配す。

「小谷城の詰めの丸」ということは、実質、この曲輪までが小谷城跡の縄張だといえるが、ここから更に奥に行くと、 六坊跡、月所丸跡を経て、小谷山最高地点495mに大嶽城跡があり、そこからさらに反対側の山沿いへ行くと、福寿丸跡や、山崎丸跡などがある。  ただし、そこまで行くには、ここ山王丸跡まで登るのにかかった時間の倍以上の時間を費やすことになるので、 よほどの城マニア、あるいは戦国マニアでない限りはおすすめしない。


22.山王丸跡に残る石垣

城跡にはあちこちで、このような名も無い石垣が残っている。


23.山王丸跡大石垣

山王丸跡東斜面に残る大石垣。 「本丸跡南側石垣」や、「黒金御門跡」と並ぶ、 小谷城跡のメインともいえる史跡なので、絶対に見逃さないようにしたい。  ちなみに山王丸跡馬出部分虎口で分かれ道になっていて、そこを右に行った先にある。  道が狭く崖になっているので注意。


24.赤尾屋敷跡

天正元年9月1日に浅井長政が29歳の若さで自刃した地。  浅井氏の重臣赤尾氏の屋敷跡と伝わり、最後の攻撃を打って出た長政が信長の兵に攻められ、 やむなくここにあったとされる赤尾美作守の屋敷に入り、自刃したのだという。

 若くして同盟を結んだ信長に反旗をひるがえして戦い、あと一歩のところまで信長を追い詰めた長政であるが、 そこで信長を倒していれば、現在に至るまでの歴史は大幅に変わっていたのだろうか?


25.小谷城マップ

この図で見たら、今回は右半分を見学したことになる。  機会があれば、左半分も巡ってみたいものだ。


26.歩いてきた山道を引き返す

さて、山王丸跡から引き返し、途中の黒金御門跡近くの分岐点の先にある赤尾屋敷跡を見学し終え、 後は帰るのみとなったわけだが、この時点で時計の針を見ると、11時40分。  私はこの日の午後は京都市内へ戻り、「京都非公開文化財特別公開」で公開されている 非公開の国宝建造物を数カ所見学する予定だった。 そのためには、 河毛駅発米原京都方面行き12時21分発の電車に乗らねばならず、 およそ36分程度で、ここから戦国歴史資料館まで引き返し、さらに河毛駅まで歩いていかなければならなくなった。
 帰りは下り坂がほとんどなので、急いで資料館までの山道を駆け下りて、後はひたすら車道脇の歩道を 汗だくになりながらランニング。 何とかギリギリ12時21分発の電車に間に合った。
 脚力を鍛える目的だった今回の城巡りであるが、これでもかってぐらい鍛えられた・・・気がする。

交通アクセス

JR北陸本線「河毛」駅下車。小谷城戦国歴史資料館まで徒歩30分。 さらにそこから追手道ルートを通り徒歩で、本丸までなら約40分、山王丸までなら約45分、 大嶽城跡までなら約1時間15分。

駐車場 山麓駐車場と、伊部林道の登った中腹に駐車場あり。

ドライブ難易度
難しい(★★★★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車なら、番所跡、金吾丸跡近くの中腹駐車スペースまで行ける。 そこから本丸跡までなら徒歩約15分なので、 麓から歩くよりはかなり楽である。 ただし、道幅は狭く、林道は通行止めになる場合もあるので要確認。

住所
〒529-0312 滋賀県長浜市小谷郡上町

地図中の49番

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