日本100名城 054番 大阪城(錦城、金城) 大阪府大阪市中央区日本100名城 054番 大阪城(錦城、金城) 国指定史跡、重要文化財13件 写真は3代目天守 昭和6年(1931)建造 国指定登録文化財 HOMEに戻る |
|
---|---|
(歴史)大阪(大坂)城の歴史は、豊臣秀吉が天正11年(1583)、石山本願寺跡地に築城を開始したのがその始まりとする。
天正13年(1585)には五重八階、黒漆塗の豪華で巨大な望楼型天守天守を完成させ、秀吉の天下人の名を全国に広めたが、秀吉の死後、政権は徳川家に移り、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣で、豊臣大坂城は天守もろとも炎上してしまう。
(100名城訪問日記)個人のブログや2ちゃんねるのスレなどを見ていると、『大阪城』のことを、 がっかり観光スポットだと揶揄する意見をたまに見かける。 『大阪城』をがっかり観光スポットだと思うか、素晴らしい城だと思うかは、あくまで個人の感じ方なので
とやかく言うつもりはない。
複雑に入り組んだ大規模な石垣群と、それらを二重に囲む広大な水堀、そして、二の丸千貫櫓や、
一番櫓、六番櫓、多聞櫓、大手門、金蔵などといった、徳川時代から
残る貴重な重要文化財建造物の数々、その他、蛸石や西の丸庭園など、その敷地内のものすべてをひっくるめて『大阪城』であるのに、
それらは全く無視して、『鉄筋コンクリート製でエレベーター付き復興天守閣』という、『大阪城』のほんの一部分の感想を述べて、
『大阪城』はがっかり観光スポットだったなどと、ブログなどで発表するという行為は、自分の無知をネットで晒しているようなもので、
あまりにも薄っぺらで短絡的な気がする。
何にせよ大阪城は、豊臣時代の遺構はほぼ残っていないとはいえ、徳川時代の城としては現存レベルが高く、 さらにその地中に、豊臣大阪城の遺構がねむっているという、非常に奥深く貴重な城であることは間違いない。 初回訪問日&撮影日 2014年10月07日
(※百名城スタンプ設置場所)大阪城天守閣1階案内所 |
|
@一番櫓(重要文化財) 徳川幕府による大阪城再築工事の第三段階にあたる寛永5年(1628)に築かれた。 二層二階建てで、 六番櫓より少し小さい。 |
A六番櫓(重要文化財) 一番櫓と同じく寛永5年(1628)に築かれた二層二階建の建物。 もともと南外堀に面した石垣上には、東から順番に一番から七番まで7つの櫓が立ち並び、土塀がそれらを連結していた。 現在は一番櫓と六番櫓を残すのみとなる。 |
B千貫櫓(重要文化財) 元和六年(1620)に築かれた、大阪城内に残る建物の中では乾櫓と並んで最も古い建造物である。 |
C向かって左から千貫櫓、多聞櫓北方塀、多聞櫓 (すべて重要文化財) |
D大手門(重要文化財) 寛永五年(1628)年、徳川幕府による大坂再築時に創建された。 |
E大手門南方塀(重要文化財) 大手門と同じく寛永五年(1628)年、徳川幕府による大坂再築時に創建された。 |
F大手門北方塀(重要文化財) 大手門と同じく寛永五年(1628)年、徳川幕府による大坂再築時に創建された。 |
G多聞櫓(下は大手の大門、その上部は渡櫓) (重要文化財) もともとの多聞櫓は寛永五年(1628)に建造されが、天明三年(1783)の落雷で焼失。 嘉永元年(1848)幕末の大坂城大改修時に今の形で再建されたという。 |
H多聞櫓(続櫓または続多聞)(重要文化財) |
I桜門(重要文化財) 別名高麗門。 明治20年(1887年)に日本陸軍大阪鎮台によって再建されたものであるが、国の重要文化財に指定されている。 |
J蛸石 城内最大の巨石で、およそ60立方メートル、推定重量130tもある。 |
K金蔵(重要文化財) 幕府の金貨、銀貨を保管していた建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。 宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造された。 高さ約5.8メートル、面積は93.11平方メートルで内部は大小2室からなり、手前の部屋には通常の出納用、 奥の部屋には非常用の金銀を置いていた。 |
L券売所前から見た天守
けっこう批判されることが多いこの天守だが、その迫力ある姿はいまや、
大坂城のシンボルとして十分な役割を果たしているだろう。
|
M金明水井戸屋形(重要文化財)
大阪城の小天守台にある井戸を金明水といい、それを覆う11.55平方メートル、高さ5.2メートルの
建物を金明水井戸屋形という。 井戸は水面まで約33メートル、井筒は一個の石をくり抜いたもので、
外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。
伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、
近年の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大阪城再築工事に
ともない寛永元年(1624)に新たに掘られたものであり、さらに井戸屋形は同3年(1626)に
創建されたものであることが分かった。
|
N天守最上階からの眺め(梅田方面) 私が大阪城天守へのぼったのは小学校以来である。 その頃と比べたら、大阪の眺めもかなり変わった。 |
O西の丸庭園
大阪城二の丸のうち、本丸の西部にあたる部分は西の丸と呼ばれており、
秀吉の正室「北政所」が慶長4年(1600)徳川家康がこの地に移り住むまでここに住んでいたといわれている。
その後、元和5年(1619)、内藤紀伊守が「大阪城代」になり、明治政府になるまで
この地は「大阪城大屋敷」として利用された。
|
P焔硝蔵(重要文化財)
徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝を保管した蔵で、現在のものは貞享2年(1685)に
建造されたもの。 耐火・耐久・防水に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁を
すべて花崗岩とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。
こうした石造りの火薬庫はわが国で他に例がない。
|
Q西の丸庭園側から見た乾櫓(重要文化財)
戦後の解体修理の際、「元和六年甲【(申)】ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」 とへら書き
された瓦が検出され、創建が元和6年(1620)であることがわかった。
すなわちこの乾櫓は千貫櫓と同じく、徳川幕府による大阪城再築工事が開始された年に
築かれた、大阪城に残る最も古い建造物といえる。
高さは約10.3メートルで2層2階建て、L字形の総二階造りという珍しい構造。
|
R西の丸庭園から見た天守 西の丸庭園(有料エリア)から見た天守閣の眺め。 焔硝蔵(重要文化財)や乾櫓(重要文化財)を見学できるうえ、 ここから見る天守はかなり美しい。 西の丸庭園に入るのに、たかだか200円程度の入場料を 払うだけの価値は十分ある。 |
S外堀側から見た乾櫓(重要文化財) 乾(戌亥)は、西北をあらわす言葉で、西の丸西北に位置することからこの名がついた。 |
21OMMビル(中央の細長いビル) 大阪城の周囲には高いビルが多く、色々なビルの上層階から大阪城を見ることができる。 その中でもこのOMMビルのスカイガーデン(屋上)から見た大阪城天守の眺めはおすすめである。 |
22OMMビルスカイガーデンから見た天守 屋上なので、ガラス窓を介さずに大阪城天守閣を撮影できる点がいい。 |
交通アクセス
JR大阪環状線「森ノ宮」駅・「大阪城公園」駅から徒歩15分 地下鉄谷町線・地下鉄中央線「谷町四丁目」駅から徒歩15分 駐車場 大阪城駐車場など、有料駐車場が周辺に数カ所あり ドライブ難易度 非常に易しい(★) (★1つ)非常に易しい (★2つ)易しい (★3つ)ふつう (★4つ)難しい (★5つ)非常に難しい おすすめアクセス方法 大阪城公園駅から周囲の櫓や堀を見学しながら、時計回りに天守を目指して歩くのがおすすめ。 住所 〒540-0002 大阪市中央区大阪城1−1 |
より大きな地図で 日本百名城 を表示 |