国宝 旧閑谷学校 講堂 岡山県備前市旧閑谷学校 講堂 国宝 1701年(元禄14年) HOMEに戻る |
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(歴史)閑谷学校は、寛文10年(1670)備前藩主池田光政が創設した庶民教育の殿堂である。
元禄14年(1701)に建造された講堂は、入母屋造りで、しころ葺の大屋根を乗せているのをその特徴とする。
実験的企画 国宝建築評価チャート図国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化(※)評価基準 ○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。 ○美しさ 見た目の美しさを点数化。 ○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。 ○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。 以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。 (国宝建造物訪問日記)日本最古にして、現存する世界最古の庶民学校、旧閑谷学校。
日本最古にして、現存する世界最古の庶民学校。
天下の三賢候の一人・池田光政の偉大なる伝言・・・。
(今回の史跡巡り全体の感想)この日のドライブルートは、備中松山城に始まり、鬼ノ城、吉備津神社と巡り、この旧閑谷学校の見学を最後に、
全行程を終えたわけだが、どの史跡も、非常に興味深いものばかりで、それぞれの滞在時間が非常に長くなってしまった。
ただ一つ、今回、私が気になったことがある。 それら4ヶ所の中で特に、吉備津神社や鬼ノ城のことを、マスコミが、
『パワースポット』なる言葉で形容しているということだ。
そういう簡単にマスコミに踊らされる人たちは、時期が来て『パワースポット』なる流行語が 廃れて、死語になってしまえば、ピタっと来るのを止めて、最終的には、常にマスコミが煽り続けている 『東○ディ○ニー○ンド』 にでも戻って、代わりにネズミの着ぐるみとかを崇拝するのだろうか? 閑谷学校だけは、マスコミに『パワースポット』といった類の薄っぺらな表現をされ、 質の悪い観光客に荒らされず、いつまでも荘厳で落ち着いたたたずまいを保ってもらいたいものである。 初回訪問日&撮影日 2013年04月08日
(※国宝建造物撮影ポイント)様々な角度から自由に撮影可能 |
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①石橋(重要文化財) 堀のような泮池にかかった石橋。 この石橋と泮池を含めて、一歩渡ったこの広大なエリア一帯が、限りなく創建当時の姿に近い状態で現存している。 |
②泮池(重要文化財) 中国上代の諸侯の学校である頖宮(はんきゅう)の制に擬してつくられた池。 本来半円形の池がつくられるのが 普通だが、閑谷学校の場合は、幅7m、長さ80mを超える長方形である。(現地説明板より) |
③校門(重要文化財) 聖廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある。 中国最古の詩集である「詩経《の中の詩に因んで 鶴鳴門ともよばれる。 |
④校門(重要文化財) 両脇に花頭窓のある付属屋をつけるなど中国の建築様式を模しており、貞享3年(1686)の造営である。(現地説明板より) |
⑤閑谷神社(重要文化財) 本殿・幣殿・拝殿・中門・神庫・石階・練塀・繋牲石がそれぞれ重要文化財に指定されている。 |
⑥閑谷神社中門(重要文化財) この神社は閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享3年(1686)に建てられた。 もとは光政の諡にちなんんで芳烈祠または西の聖廟に対して東御堂といわれた。(現地説明板より) |
⑦閑谷神社拝殿(重要文化財) 明治八年(1875)に神社格付けされ閑谷神社と改称した。 |
⑧閑谷神社本殿・幣殿・拝殿(重要文化財) 本殿内に宝永元年(1704)に造られた光政の金銅製座像が安置されている。(現地説明板より) |
⑨公門(重要文化財) 藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。 本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、 石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。(現地説明板より) |
⑩飲室門(重要文化財) 日通いの生徒や、毎月朔日の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門だった。(現地説明板より) |
⑪石塀(重要文化財) 校門の左右から出て、閑谷学校の施設すべてを囲み全長765mにもおよぶ。 河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団に よって築かれたもので「切り込み接ぎ式《の工法が用いられており、元禄14年(1701)に完成した。 内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けており、三百年を経て今も端然たる姿をたたえているという。(現地説明板より) |
⑫小斎(重要文化財) 延宝5年(1677)に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。 この建物だけがこけら葺で現存する 建造物の中では、最も古い姿を残している。(現地説明板より) |
⑬小斎(重要文化財)内部 質素な材を用いた数奇家造りで一の間、二の間の二室からなり、紊戸・浴室・雪隠が付属している。 |
⑭習芸斎(重要文化財) 毎月朔日には朱文公学規の講話がなされ、近隣の百姓の聴講も許された。 三・八の日には五経などの 講釈が行われた。 床に用いられている材は栂で、天井は張っておらず太い自然木が見える野天井である。 |
⑮飲室(重要文化財) 生徒の休憩室で湯茶を喫することができた。 中央の炉のふちには、火の使用を厳重に注意するようにという文が彫り込まれていた。 土間の片側にある竹の簀の子の下には石づくりの流しが配されている。(現地説明板より) |
⑯文庫(重要文化財) 閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余りが所蔵されていた。 漆喰塗りで固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、全室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている。(現地説明板より) |
⑰聖廟(重要文化財) 大成殿・聖龕・東階・西階・中庭・文庫・厨屋・繫牲石・外門・練塀・石階・校門・石橋 |
⑱聖廟大成殿(重要文化財) 儒学の始祖孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。 本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684)の完成。(現地説明板より) |
⑲大成殿内部厨子 内部の厨子には 元禄十四年(1701)鋳造の孔子像が安置。(現地説明板より) |
⑳繋牲石(けいせいせき) 孔子を祀る釈奠(せきてん)に供える「いけにえ《の生き物をつなぐ石柱である。 閑谷学校では蔬菜を中心とした釈菜(せきさい)を行うので、形式的に配置しているだけである。(現地説明板より) |
㉑講堂(国宝) 元禄十四年(1701)の完成で内部は十本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁でとりまいている。(現地説明板より) |
㉒講堂(国宝) 材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。(現地説明板より) |
㉓講堂内廊下 一・六の日の四書の講釈、釈菜の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの講釈がおこなわれた。(現地説明板より) |
㉔講堂内部 花頭窓からの光を反射している美しい床や丸柱は、江戸時代から現在に至るまで、ここに座った生徒たちによって 磨きこまれてきたという。 |
㉕講堂内部 正面には池田綱政が書いた三ヶ条の「定《が墨書されている。 |
㉖火除山 この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。(現地説明板より) |
㉗資料館への通路 もともとはこのお奥に、遠方から来た生徒のための学房(寄宿舎)があったという。 江戸時代当時、授業を終えた生徒たちは、この通路を通って、寄宿舎へ帰っていったのだろう。
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㉘資料館 明治三十八年(1905)に建てられた洋風の校舎の本館部分を活用して7つの展示場が設けられている。明治38年(1905)に建てられた私立閑谷中学校(初代校長・西毅一)の校舎で、それまでは、閑谷学校の学舎や学房(寄宿舎)があった。 |
㉙御紊所 閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政の髪、髭、爪、歯を紊めた供養塚である。 入ると、鹿が数匹いたが、私たちが近づくと、
一瞬で森の中へ逃げ去ってしまった。 まるで『もののけ姫』のような幻想的な雰囲気である。
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㉚駐車場から見た全景 今も昔も変わらぬこの風景。 ただ一つはっきりしていることは、かつてこの谷で、数多くの生徒たちが学問を学び、その人数分の『青春』があったということだろう・・・。 |
アクセス
JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分
駐車場 有 仏塔巡礼ドライブ難易度 非常に易しい(★) ★1つ→非常に易しい ★2つ→易しい ★3つ→ふつう ★4つ→難しい ★5つ→非常に難しい おすすめアクセス方法 自動車によるアクセスがおすすめ。駅からは遠いし、バスは本数が少ない。 住所 岡山県備前市閑谷784 |
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