国宝 旧閑谷学校 講堂 岡山県備前市






旧閑谷学校
講堂
国宝
1701年(元禄14年)

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(歴史)

閑谷学校は、寛文10年(1670)備前藩主池田光政が創設した庶民教育の殿堂である。
 備前藩武士の子弟が学ぶ藩校「岡山学校《は、現在の岡山市内にあったのだが、 二つ目の藩直営の学校・閑谷学校は、初めから庶民の学校・地方のリーダーを育てる学校として、天下の三賢候の一人と 呼ばれる池田光政が、重臣津田永忠にその建設を命じたという。
 現存する講堂をはじめとする建築物が完成したのは、光政の死後、元禄14年(1701)、二代目藩主綱政の代になってからであるから、 建築には32年の月日を費やしたことになり、それらの建築物は、当時としては他に例をみない質とスケールを誇っていた。
 閑谷学校は、『地方のリーダーを育てる』という池田光政の目標理念のために、 武士のみならず庶民の子弟も教育し、また、門戸を他藩の子弟にも開き、学ばせたという。  就学年齢は8歳頃から20歳頃まで。 カリキュラムは1と6の付く日には講堂で儒教の講義があり、5と10の付く日は休日となっているなどであった。  頼山陽などの著吊人も来訪し、幕末には少年時代の大鳥圭介もここで学んだという。

元禄14年(1701)に建造された講堂は、入母屋造りで、しころ葺の大屋根を乗せているのをその特徴とする。
 それは、いったんこけら葺の屋根をつくった上に、垂木ごとに漆をかけた一枚板を張り、その上に備前焼瓦を のせるという、非常に手の込んだ造りであり、軒先の陶管なども含めて雨水に対する万全の対策がとられている。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

日本最古にして、現存する世界最古の庶民学校、旧閑谷学校。
 その初見の印象は、見事だという以外、言葉が思い当たらなかった。
 かくも質実剛健であり、かくもノスタルジックな国宝建造物が他にあるだろうか?

日本最古にして、現存する世界最古の庶民学校。
 その講堂をはじめとした創建当時の建造物の数々が、ほぼ完全な状態で現存し、しかも現在も「講堂学習《の場などとして使用されているとは、奇跡というより他ない。  それは、何よりも閑谷学校開設者、岡山藩主・池田光政の、閑谷学校開設にかける並々ならぬ想いが、長い年数を経ても、ほぼ完全な状態で現存しているという事実に繋がったと言わざるをえないだろう。

天下の三賢候の一人・池田光政の偉大なる伝言・・・。
 その構想から300年以上を経た現在も、この地で脈々と受け継がれている。


(今回の史跡巡り全体の感想)

この日のドライブルートは、備中松山城に始まり、鬼ノ城吉備津神社と巡り、この旧閑谷学校の見学を最後に、 全行程を終えたわけだが、どの史跡も、非常に興味深いものばかりで、それぞれの滞在時間が非常に長くなってしまった。
 そのため、最後の閑谷学校が、少し駆け足の見学になってしまったことは少し心残りである。
 とにもかくにも、関西に住む私としては、岡山県という日帰りで何度も来ている県に、まだまだこんなに素晴らしい史跡の 数々が存在していたことに感動するとともに、これからも日本各地の歴史史跡を巡っていきたいと感じるに至った。

ただ一つ、今回、私が気になったことがある。 それら4ヶ所の中で特に、吉備津神社鬼ノ城のことを、マスコミが、 『パワースポット』なる言葉で形容しているということだ。
 昨今は、あやしい霊能者やマスコミが、日本各地の格式高い神社や寺院、城跡などのことを、 さも自分が発見したかのように、勝手に『パワースポット』 と呼び、あそこの神社へ行けば恋愛が 成就するとか、あそこの寺へ行けば金運があがるなどと、テキトーなことを宣って観光客を煽っている傾向がある。
 その結果、そんなマスコミたちの謳い文句にまんまと乗せられ、神社や寺などに全く興味が無いにもかかわらず、 わざわざそこにやって来て、一方的な願い事だけ済まして、とっとと帰っていく観光客が増えてきている気がするのである。
 私は、マスコミや、霊能者たちに踊らされて、興味の無い歴史史跡にやって来て、その史跡のことを 学ぼうともせず帰っていく観光客って、一体何なのかと疑問に思う。

そういう簡単にマスコミに踊らされる人たちは、時期が来て『パワースポット』なる流行語が 廃れて、死語になってしまえば、ピタっと来るのを止めて、最終的には、常にマスコミが煽り続けている 『東○ディ○ニー○ンド』 にでも戻って、代わりにネズミの着ぐるみとかを崇拝するのだろうか?

閑谷学校だけは、マスコミに『パワースポット』といった類の薄っぺらな表現をされ、 質の悪い観光客に荒らされず、いつまでも荘厳で落ち着いたたたずまいを保ってもらいたいものである。


初回訪問日&撮影日 2013年04月08日

(※国宝建造物撮影ポイント)

様々な角度から自由に撮影可能


①石橋(重要文化財)

堀のような泮池にかかった石橋。 この石橋と泮池を含めて、一歩渡ったこの広大なエリア一帯が、限りなく創建当時の姿に近い状態で現存している。


②泮池(重要文化財)

中国上代の諸侯の学校である頖宮(はんきゅう)の制に擬してつくられた池。 本来半円形の池がつくられるのが 普通だが、閑谷学校の場合は、幅7m、長さ80mを超える長方形である。(現地説明板より)


③校門(重要文化財)

聖廟の正門として建てられたもので閑谷学校の校門でもある。 中国最古の詩集である「詩経《の中の詩に因んで 鶴鳴門ともよばれる。


④校門(重要文化財)

両脇に花頭窓のある付属屋をつけるなど中国の建築様式を模しており、貞享3年(1686)の造営である。(現地説明板より)


⑤閑谷神社(重要文化財)

本殿・幣殿・拝殿・中門・神庫・石階・練塀・繋牲石がそれぞれ重要文化財に指定されている。


⑥閑谷神社中門(重要文化財)

この神社は閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政を祀るために貞享3年(1686)に建てられた。 もとは光政の諡にちなんんで芳烈祠または西の聖廟に対して東御堂といわれた。(現地説明板より)


⑦閑谷神社拝殿(重要文化財)

明治八年(1875)に神社格付けされ閑谷神社と改称した。


⑧閑谷神社本殿・幣殿・拝殿(重要文化財)

本殿内に宝永元年(1704)に造られた光政の金銅製座像が安置されている。(現地説明板より)


⑨公門(重要文化財)

藩主臨学の際に使用した門で御成門ともいう。 本柱の後ろに控柱二本を建てて切妻屋根をのせる薬医門様式の建物で、 石塀が築かれた元禄十四年(1701)の時点で設置された。(現地説明板より)


⑩飲室門(重要文化財)

日通いの生徒や、毎月朔日の朱文公学規講釈に出席する聴講者が出入りする通用門だった。(現地説明板より)


⑪石塀(重要文化財)

校門の左右から出て、閑谷学校の施設すべてを囲み全長765mにもおよぶ。 河内屋治兵衛を棟梁とする石工集団に よって築かれたもので「切り込み接ぎ式《の工法が用いられており、元禄14年(1701)に完成した。  内部には洗浄した割栗石をつめて排水を助けており、三百年を経て今も端然たる姿をたたえているという。(現地説明板より)


⑫小斎(重要文化財)

延宝5年(1677)に建造されたもので、藩主臨学の際の御成の間である。 この建物だけがこけら葺で現存する 建造物の中では、最も古い姿を残している。(現地説明板より)


⑬小斎(重要文化財)内部

質素な材を用いた数奇家造りで一の間、二の間の二室からなり、紊戸・浴室・雪隠が付属している。


⑭習芸斎(重要文化財)

毎月朔日には朱文公学規の講話がなされ、近隣の百姓の聴講も許された。 三・八の日には五経などの 講釈が行われた。 床に用いられている材は栂で、天井は張っておらず太い自然木が見える野天井である。


⑮飲室(重要文化財)

生徒の休憩室で湯茶を喫することができた。 中央の炉のふちには、火の使用を厳重に注意するようにという文が彫り込まれていた。  土間の片側にある竹の簀の子の下には石づくりの流しが配されている。(現地説明板より)


⑯文庫(重要文化財)

閑谷学校の教科書・参考書をおさめた書庫で、中央の階段を上がった左右の床に八千点余りが所蔵されていた。  漆喰塗りで固めた上を瓦葺きにした置屋根式で、全室には三重の土の戸を含む六層の戸が設けられている。(現地説明板より)


⑰聖廟(重要文化財)

大成殿・聖龕・東階・西階・中庭・文庫・厨屋・繫牲石・外門・練塀・石階・校門・石橋


⑱聖廟大成殿(重要文化財)

儒学の始祖孔子を祀っており、孔子廟または西御堂ともいう。 本殿にあたる大成殿は貞享元年(1684)の完成。(現地説明板より)


⑲大成殿内部厨子

内部の厨子には 元禄十四年(1701)鋳造の孔子像が安置。(現地説明板より)


⑳繋牲石(けいせいせき)

孔子を祀る釈奠(せきてん)に供える「いけにえ《の生き物をつなぐ石柱である。 閑谷学校では蔬菜を中心とした釈菜(せきさい)を行うので、形式的に配置しているだけである。(現地説明板より)


㉑講堂(国宝)

元禄十四年(1701)の完成で内部は十本の円柱に囲まれた内室と、その周囲の入側からなり外廻りを広縁でとりまいている。(現地説明板より)


㉒講堂(国宝)

材料の吟味と施工が入念になされており、今日に至るまで一分の狂いもみられない。(現地説明板より)


㉓講堂内廊下

一・六の日の四書の講釈、釈菜の講経、正月の読初めの儀、藩主臨学のときの講釈がおこなわれた。(現地説明板より)


㉔講堂内部

花頭窓からの光を反射している美しい床や丸柱は、江戸時代から現在に至るまで、ここに座った生徒たちによって 磨きこまれてきたという。


㉕講堂内部

正面には池田綱政が書いた三ヶ条の「定《が墨書されている。


㉖火除山

この山の西側に学舎や学房(寄宿舎)などがあり、そこからの出火が講堂などに及ばないようにするため、防火の目的でつくられた人工の山である。(現地説明板より)


㉗資料館への通路

もともとはこのお奥に、遠方から来た生徒のための学房(寄宿舎)があったという。 江戸時代当時、授業を終えた生徒たちは、この通路を通って、寄宿舎へ帰っていったのだろう。
 この通路を歩きながら、様々な身分、様々な藩出身の生徒たちは、どんな会話をしていたのだろうか・・・。
 授業のことか、はたまた、日本のことだろうか。 いや、もっと他愛もない、今晩何して遊ぶかという話かもしれない・・・。  色々と想像力がかきたてられる場所だった。


㉘資料館

明治三十八年(1905)に建てられた洋風の校舎の本館部分を活用して7つの展示場が設けられている。明治38年(1905)に建てられた私立閑谷中学校(初代校長・西毅一)の校舎で、それまでは、閑谷学校の学舎や学房(寄宿舎)があった。


㉙御紊所

閑谷学校の創始者である岡山藩主池田光政の髪、髭、爪、歯を紊めた供養塚である。 入ると、鹿が数匹いたが、私たちが近づくと、 一瞬で森の中へ逃げ去ってしまった。 まるで『もののけ姫』のような幻想的な雰囲気である。
 この場所はその昔、学房生徒たちの肝試しの場になっていたというが、案外、当時の生徒たちも、今の学生とあまり変わらないのかもしれない。
 それよりも私は、閉門時間が過ぎていたので、中にいる私たちに気づかずに門を閉められてしまわないかヒヤヒヤしていた・・・。


㉚駐車場から見た全景

今も昔も変わらぬこの風景。 ただ一つはっきりしていることは、かつてこの谷で、数多くの生徒たちが学問を学び、その人数分の『青春』があったということだろう・・・。

アクセス JR山陽本線吉永駅下車、タクシーで10分

駐車場 有

仏塔巡礼ドライブ難易度 非常に易しい(★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車によるアクセスがおすすめ。駅からは遠いし、バスは本数が少ない。

住所
岡山県備前市閑谷784


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