日本100名城 033番 高岡城(―) 富山県高岡市日本100名城 033番 高岡城(―) 県指定史跡 写真上は土橋の石垣、写真下は前田利長像 HOMEに戻る |
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(歴史)加賀前田家2代当主・前田利長は、慶長10年(1605)に隠居して富山城にいたが、
富山城が慶長14年(1609)3月18日に焼失したため、同年、高岡台地の北隅に高岡城を築城した。
その縄張は築城の名手として知られるキリシタン大名高山右近によるとされているが、最近の研究で、
利長自らが縄張をした可能性も指摘されている。
(100名城訪問日記)この日の散策コース
感想
さて、この高岡城であるが、元和元年(1615)に一国一城令が出された後、廃城。
それからほどなくして、建造物もほとんど取り壊されたので、現存建造物は残っていない。
しかしその代わり、
本丸、二の丸、鍛冶丸、明丸、三の丸などの曲輪と、それらを囲む水濠、そして土塁、その他、二の丸と本丸を結ぶ、
土橋の石垣などが、これ以上ないくらい見事に残されている。
そのことを知って改めてこの高岡城跡を見つめると、これだけ見事な遺構の数々が残っている点も納得した。
初回訪問日&撮影日 2014年11月21日
(※百名城スタンプ設置場所)高岡市立博物館(鍛冶丸跡) |
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@高岡市立博物館 高岡古城公園内にあり入城料無料。 100名城スタンプ設置場所である。 これほど大きな博物館に、 一地方都市である高岡市の文化や歴史などを取り扱った展示物が所狭しと並ぶ。 高岡市出身の有名漫画家、 藤子・F・不二雄先生に関する展示物などもあり、高岡市ゆかりの有名人の多さに驚かされた。 |
A枡形濠 これら水濠は、伏流水などを水源としていて、良好な状態で残っている。 |
B三の丸濠 |
C民部の井戸 この屋形の中にある井戸は、民部の井戸と呼ばれ、築城当時から続くといわれている。 |
D内濠 |
E本丸 |
F前田利長像 加賀前田家初代当主・前田利家の長男として生まれる。 利家の名は、大河ドラマ『利家とまつ』や、 少年漫画『花の慶次』などであまりにも有名だが、長い甲冑がトレードマークであるこの利長の知名度もそれに負けず劣らず高い。 利長は晩年、ここ高岡に城を作ると同時に、 各地から商人や、鋳物師などの職人を招き、高岡が商工業の町として発展する基礎を築いた。 |
G高山右近像 高岡城の縄張(設計)を担当。 キリシタン大名で、築城の名手として有名。 他に金沢城などを手がけた。 |
H池の端濠 |
I土橋の石垣
高岡城は元和元年(1615年)廃城となったが、当時の城壁の名残りとして、二の丸と本丸を結ぶこの地に
土橋の石垣が見られる。 この石垣の石にはいろいろな文字や文様が刻印されており、キリシタンに関係があるという説もあるが、
石工が石を切り出した時につけた目印だと考えられる。 石垣の積み方は乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いている。
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J高岡大仏 現在のものは、 三代目にあたる。 初代は延享2年(1745)に、坂下町極楽寺の良歓が建てた高さ9.7mの木像だったが、 文政4年(1821)に焼失した。 二代目は、天保12年(1841)に木像で再建されたが、これも明治33年(1900)に焼失。 現在の三代目のものは、松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治40年(1907)に着工され、二十有余年の歳月を経て、 昭和8年(1933)に全工程を終了。 五月に開眼式が行われた。 原型は中野双山、古式鋳造法である 焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行ったという。 |
K高岡大仏
高岡城と直接の関係は無いが、さらに昔、鎌倉時代に源義勝が二上山のふもとに高さ4.8mの仏像を作り、
前田利長がこれを高岡開町の1609年に街中に移したという説もある。
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交通アクセス
JR北陸本線「高岡」駅より徒歩約10分 駐車場 高岡古城公園周辺に数カ所あり ドライブ難易度 非常に易しい(★) (★1つ)非常に易しい (★2つ)易しい (★3つ)ふつう (★4つ)難しい (★5つ)非常に難しい おすすめアクセス方法 どのアクセス方法でも問題ない 住所 〒933-0044 富山県高岡市古城 |
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