日本100名城 033番 高岡城(―) 富山県高岡市




日本100名城 033番
高岡城(―)
県指定史跡
写真上は土橋の石垣、写真下は前田利長像

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(歴史)

加賀前田家2代当主・前田利長は、慶長10年(1605)に隠居して富山城にいたが、 富山城が慶長14年(1609)3月18日に焼失したため、同年、高岡台地の北隅に高岡城を築城した。  その縄張は築城の名手として知られるキリシタン大名高山右近によるとされているが、最近の研究で、 利長自らが縄張をした可能性も指摘されている。
 利長は慶長14年(1609)9月13日に、主立つ家臣434名を引き連れて入城を果たし、 翌日には二の丸の門や隅櫓の増築を命じ、入城3年目には書院廊下用の畳の調達を命じるなど、城はしばらくの間は 未完成であった。
 高岡城の規模は、東南279間(約507m)、南西201間(約365m)あったとされている。  面積は21.8万uで、そのうち三割は水濠で占められており、縄張り形式は、本丸から二の丸、鍛冶丸、明丸、 三の丸、現「梅林」、御城外という七つの郭を土橋で繋げる「連続馬出」であり、現在もその遺構のほぼすべてが残っている。
 建造物は、殿閣の他、各種史料によると、本丸には在木蔵・番所・鷹部屋などが、二の丸には利長夫人付鈴木権之助屋敷と門と隅櫓2棟などが、 三の丸には今枝民部直恒の屋敷などがあったとされている。
 利長は入城翌年慶長15年(1610)に病を発し、慶長19年(1614)5月20日、53歳で死亡する。  そして翌年元和元年(1615)には、一国一城令が出されたため、高岡城は廃城となる。
 未完の建物は破却されたが、利長の跡を継いだ3代当主・前田利常は、城の塁(郭)と堀を保存し、 米や塩などの蔵を設置して利用し、一般の出入りを禁止していた。
 江戸時代はそのままの状態で城跡が保存され、明治8年(1875)に公園条令による指定を受けて 高岡古城公園となり、現在も往時の姿を偲ばせている。


(100名城訪問日記)

この日の散策コース
瑞龍寺(国宝・山門、仏殿、法堂など)→前田利長公墓所→高岡城跡(日本100名城)→高岡大仏→金沢城(日本100名城)

感想
 国宝建造物と日本100名城を巡っている私は、今回高岡市へ訪れるにあたって、瑞龍寺や高岡城跡を見学したのだが、 この二箇所はどちらも加賀前田家ゆかりの場所であり、歴史的に見ても重要な場所でもある。
 だから、国宝建造物や日本100名城に関係なく、高岡市へ観光に訪れた誰しもが必ず、両方を見学しているようだ。

さて、この高岡城であるが、元和元年(1615)に一国一城令が出された後、廃城。  それからほどなくして、建造物もほとんど取り壊されたので、現存建造物は残っていない。  しかしその代わり、 本丸、二の丸、鍛冶丸、明丸、三の丸などの曲輪と、それらを囲む水濠、そして土塁、その他、二の丸と本丸を結ぶ、 土橋の石垣などが、これ以上ないくらい見事に残されている。
 一体何故、利長築城後、わずか5〜6年で廃城し、早々に建造物が取り壊されたこの高岡城に、 これだけ見事な遺構の数々が残されているのだろうか。
 その理由は、男子がなかった利長に、養嗣子として迎えられ、加賀120万石を譲られた、利常 (利長の異母弟にあたる)が、高岡城跡に、米や塩などの蔵を設置して一般の出入りを禁止し、 城の塁(郭)と堀を保存したからである。
 その後江戸時代を経て、明治8年(1875)に公園条令による指定を受けて 高岡古城公園となり、 現在に至るわけだ。

そのことを知って改めてこの高岡城跡を見つめると、これだけ見事な遺構の数々が残っている点も納得した。
 それらの見事な遺構の数々は、高岡城廃城からほぼ400年も経た現在の私たちが、 当時の利常の利長に対する非常に深い感謝の意を察するのに、十分すぎるものであった。

初回訪問日&撮影日 2014年11月21日

(※百名城スタンプ設置場所)
高岡市立博物館(鍛冶丸跡)

@高岡市立博物館

高岡古城公園内にあり入城料無料。 100名城スタンプ設置場所である。 これほど大きな博物館に、 一地方都市である高岡市の文化や歴史などを取り扱った展示物が所狭しと並ぶ。 高岡市出身の有名漫画家、 藤子・F・不二雄先生に関する展示物などもあり、高岡市ゆかりの有名人の多さに驚かされた。


A枡形濠

これら水濠は、伏流水などを水源としていて、良好な状態で残っている。


B三の丸濠


C民部の井戸

この屋形の中にある井戸は、民部の井戸と呼ばれ、築城当時から続くといわれている。


D内濠


E本丸


F前田利長像

加賀前田家初代当主・前田利家の長男として生まれる。 利家の名は、大河ドラマ『利家とまつ』や、 少年漫画『花の慶次』などであまりにも有名だが、長い甲冑がトレードマークであるこの利長の知名度もそれに負けず劣らず高い。  利長は晩年、ここ高岡に城を作ると同時に、 各地から商人や、鋳物師などの職人を招き、高岡が商工業の町として発展する基礎を築いた。


G高山右近像

高岡城の縄張(設計)を担当。 キリシタン大名で、築城の名手として有名。 他に金沢城などを手がけた。


H池の端濠


I土橋の石垣

高岡城は元和元年(1615年)廃城となったが、当時の城壁の名残りとして、二の丸と本丸を結ぶこの地に 土橋の石垣が見られる。 この石垣の石にはいろいろな文字や文様が刻印されており、キリシタンに関係があるという説もあるが、 石工が石を切り出した時につけた目印だと考えられる。 石垣の積み方は乱積みという素朴ながら堅固な方法を用いている。
 (近くの看板の文章より)

 土塁と堀からなる高岡城においてこの場所だけは両脇に石垣が築かれている。  現存建造物がほぼ無い高岡城においてこの石垣は、日本100名城スタンプのイラストに使用される点など、 いわば高岡城跡見学のメインとも言える場所なので絶対に見落とさないようにしたい。  ちなみに石垣を近くで見るためには、橋の横から下に降りていかなければならない。


J高岡大仏

現在のものは、 三代目にあたる。 初代は延享2年(1745)に、坂下町極楽寺の良歓が建てた高さ9.7mの木像だったが、 文政4年(1821)に焼失した。 二代目は、天保12年(1841)に木像で再建されたが、これも明治33年(1900)に焼失。  現在の三代目のものは、松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治40年(1907)に着工され、二十有余年の歳月を経て、 昭和8年(1933)に全工程を終了。 五月に開眼式が行われた。 原型は中野双山、古式鋳造法である 焼型重ね吹きの技法で、鋳造から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人たちの手で行ったという。


K高岡大仏

高岡城と直接の関係は無いが、さらに昔、鎌倉時代に源義勝が二上山のふもとに高さ4.8mの仏像を作り、 前田利長がこれを高岡開町の1609年に街中に移したという説もある。

 私は高岡城を見学後立ち寄ってみた。 奈良・鎌倉の大仏とともに、日本三大仏と称されているらしい。  全国には、日本三大仏以外にも、日本三景(松島・宮島・天橋立)や、日本三名塔(法隆寺五重塔・ 醍醐寺五重塔・瑠璃光寺五重塔)などといった、様々な日本三○○がある。  時間があれば、そういった様々な日本三○○もすべて巡ってみたいものだ。

交通アクセス

JR北陸本線「高岡」駅より徒歩約10分

駐車場 高岡古城公園周辺に数カ所あり

ドライブ難易度
非常に易しい(★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
どのアクセス方法でも問題ない

住所
〒933-0044 富山県高岡市古城

地図中の33番

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