日本100名城 063番 鳥取城(―) 鳥取県鳥取市


内堀越しに望む鳥取城


天球丸の石垣


二の丸の竪石垣


日本100名城 063番
鳥取城(―)
国指定史跡

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(歴史)

鳥取城は、天文14年(1545)に、山名誠通が山名氏一族争いの過程で、 久松山に砦を築いたのが始まりとされる。 天正1年(1573)には、山名豊国が 本拠地を湖山池東岸の天神山城より移転し、以後、因幡山名氏の拠点となった。  その後天正8年(1580)に、織田信長から中国攻めを任された羽柴(豊臣)秀吉が、 第一回目の鳥取城攻めを行い、山名豊国は降伏。 しかしそのすぐ後に毛利氏が鳥取城を再奪還し、 新城将として吉川経家を派遣する。
 その翌年天正9年(1581)、秀吉は2度目の鳥取城攻めを行い、兵糧攻めの末、吉川経家の切腹で 毛利方が降伏した。 兵糧攻めは秀吉の「渇え殺し」と呼ばれるほど凄まじく、 城内には餓死者が続出し、草木や牛馬は食べ尽くされ、 人が人を喰らう惨状にまで行き着いたという。
 その後新たに城主になったのは、豊臣秀吉の側近として活躍した宮部継潤で、 息子長房がその後を継ぐが、関ヶ原の合戦で西軍に与したため東軍の攻撃を受け、徹底抗戦するも開城。  合戦後は、姫路城を築いた池田輝政の弟、池田長吉が城主となり、紆余曲折を経て、 姫路城主、池田光政が鳥取城へ転封となり、32万石の政庁として整備。  寛永9年(1632)に岡山城主池田忠雄の死亡に伴い、3歳の光仲が家督を継ぐと、幕府はそのいとこである 光政との国替えを命じる。
 以後、鳥取城は明治の廃藩置県に至るまで、池田光仲を藩主とする鳥取池田家12代の居城となった。

秀吉の兵糧攻めによって攻め落とされるまでの鳥取城には、まだ石垣や天守が無かったとされ、 通常の居住空間は山麓にあったいわれている。 そして戦闘時は山城を利用し、尾根を切り盛りして 平らな敷地を造り、その周囲に切岸と呼ばれる急な斜面を造り、敵の侵入に備えたという。
 その後入った宮部氏、池田氏により、山麓の大改修が行われ、 山頂の戦国時代の山城(山上の丸)と、麓の近世城郭(山下の丸)という、今日見られる縄張りが 整備されていった。  池田氏32万石の居城になるまでには、山頂に二重天守、山麓には三階櫓が建てられた。


(100名城訪問日記)

この日は一日かけて、鳥取城をはじめとした鳥取市内の観光をすることにした。
 その交通手段は、まず、大阪駅から、7時37分発の特急スーパーはくと1号(倉吉行)に乗り、 10時12分に鳥取駅に到着。 鳥取市100円循環バスの緑コースに乗り込み、「仁風閣・県立博物館」バス停で下車するというものだった。

バスを降りると、城跡がある久松公園は、想像してた以上に、多くの人びとでごった返していた。  なんでもこの日の久松公園では、お城まつりが開催されており、県内及び県外から多くの人びとが ここ鳥取城跡に集結していたということである。  私は、お城まつりの出店やイベントにも興味があったが、あくまでこの日の目的は100名城巡り。  まずは、100名城スタンプ設置場所である重要文化財・仁風閣で押印を済ませ、 天球丸と二ノ丸の見事な石垣跡を見学し、次は山上ノ丸を目指して、山登りをはじめた。
 急な山道を20分ほど登っただろうか・・・。  そこで私は、予測だにしなかった事態に遭遇する。  なんと、一台のヘリコプターが、すごい砂煙を上げながら、山の斜面に向かって近づいてきたのである。  私はその砂煙に、目を開けていられないくらいになりながらも先に進むと、山道脇に二人の警察官が立っていた。  私はその警察官らに何が起こっているのか事情を尋ねると、警察官が言うには、私と同じ鳥取城観光客が、山登り途中に滑落事故を おこしてしまい、その救助にドクター・ヘリが出動しているとのことである。
 救助活動はもうしばらくかかりそうなので、申し訳ないが下山してくれと言われてしまった。
 私は仕方なく、山上ノ丸へ行くことなく下山することになる。
 山の麓に到着すると、消防車や救急車が何台か停車し、救急隊員たちが待機しているものものしい雰囲気だったので、 近くにいた人に尋ねると、けが人はもう、ヘリコプターから下ろされた担架に乗せられた後、引き上げられて収容され、 飛んでいったとのことである。 しかもその一部始終は、お城まつりで賑わう多くの人々が、山の麓から見ていたというから驚きだ。
 私が砂煙を浴びながら必死で山登りをしている最中に、麓のお城まつりに来た人たちは、 山の中腹にヘリが近づき、担架にけが人を載せて引き上げるという、普通では見ることができないような光景を見ていたなんて、 不謹慎ながら私もお城まつりから先に行けばよかったかもしれない。
 ちなみにその滑落事故についてだが、帰ってからネットでいくら調べてもなんの情報も見つけられなかったので、 ケガをした人の安否は不明である。

ところでこの鳥取城では、日本史史上、最も凄惨な兵糧攻めが行われたことで知られいている。  秀吉の軍師・黒田官兵衛は、鳥取城を攻める前に、その兵糧を少しでも早く尽きさせるために、 情け容赦の無い策を講じ、それを秀吉とともに実行した。  その策とは、若狭の商船に因幡国中の米を高値で買い占めさせ鳥取城への米の流入を防いだことと、  さらに、秀吉の軍勢が鳥取城下の村に火を放ったうえに、村人たちに乱暴を行い、 多くの村人たちが鳥取城へ避難するように仕向けたことである。
 官兵衛のそれらの策は功を奏し、鳥取城の兵糧はすぐに尽きてしまう。
 そこからの惨状はまさに地獄絵図。 飢えた城兵や百姓たちは、雑草など食べられる草という草を食べ尽くし、 それらも尽きてしまうと、ついには埋葬された死体を掘りおこして喰らうに至る。  中には餓死するよりはと、秀吉によって城の周囲に張られた柵をよじ登り外へ逃げようとする人々もいたが、 瞬く間に秀吉軍の鉄砲による餌食になり、鉄砲で撃たれて倒れた人々は、まだ息があっても、 城内に残っている飢えた人々によって、ナタや小刀で解体され、食べられてしまったのである。  この惨状を見かねた吉川経家は、自らの切腹を条件に、城内の人々の命を助けてもらうよう願い出た。  秀吉はこれを承諾し、城の包囲を解除。 城内の飢えた人々に大量の粥を用意したが、 人々の大半は、飢えた胃袋の状態で、急に多くを食べ過ぎてしまったために 胃痙攣を起こして死んでしまったという。

その後鳥取城では、そのように無念で死んでいった人々の怨霊が多く目撃され、 現在でも日本有数の心霊スポットとして知られているそうだ。  世界有数の飽食国家である現在の日本人には、当時鳥取城で餓死していった人々の無念さや苦しみを理解することはできない。
 もし仮に現在でもそのような怨霊が存在するのなら、 山上ノ丸を目指す観光客たちに助けを求めてその脚を掴み、 自分たちの道連れとして奈落の底へ引きずり込もうとしたとしても、何ら不思議ではないかもしれない。
 その被害にあうのが、たまたま私ではなかったというだけで・・・。


訪問日&撮影日 2015年10月18日

(※百名城スタンプ設置場所)
鳥取城跡内 「重要文化財 仁風閣」内

@仁風閣(重要文化財)

100名城スタンプ設置場所。
 仁風閣は、明治40年5月、皇太子殿下(のちの大正天皇) の山陰行啓に際し、そのご宿舎として、鳥取池田家第14代当主、池田沖博侯爵によって、 扇御殿跡に建てられた。


A仁風閣背面全景

その設計は明治建築最高傑作である赤坂離宮の設計家として有名な宮廷建築家 片山東熊博士によるものと伝えられ、工部大学校での片山東熊の後輩にあたる鳥取市出身の 建築家橋本平蔵が補佐し、地元の工匠浜田芳蔵が施工にあたった。
 フレンチルネッサンス様式を基調とする木造二階建ての本格的洋風建築で、 中国地方屈指の明治建築として有名である。


B切石積石垣

城内唯一の白色花崗岩の切石積石垣。


C三階櫓石垣

この櫓台には、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。  元禄5年(1692)に山上ノ丸の天守櫓が焼失したのちは、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、 明治12年の解体撤去までその偉容を誇っていた。


Dお左近の手水鉢

写真上方の丸くえぐれた石は、近世城郭としての鳥取城の基礎を築いた池田長吉の子、池田長幸夫人の 侍女・「お左近(さご)」の手水鉢(神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器)を 石垣に築きこんだもので、このことにより難工事であった三階櫓が無事に完成したと伝わる。


E三階櫓石垣の上からの眺め

この日は「お城まつり」というイベントが催されており、城内は数多くの人々で賑わっていた。


F二ノ丸石垣群

これら山下ノ丸の石垣は言うに及ばず、山上ノ丸にも数多くの石垣が残る。


G時代の異なる建物跡

石垣修理で見つかった天球丸三階櫓と武具櫓の出土状況を再現している。


H八幡宮跡

武人の神・八幡神を祀った神社の跡。 境内は巻石垣を応用して築かれている。


I石切場

二ノ丸背後にある露出岩盤は元和5年(1619)頃から始まった城の大改修の際に石垣の石材を調達した石切場跡である。


J登石垣

嘉永2年(1849)に、二ノ丸の北端に築かれた幕末のものとしては国内唯一のもの。


K西坂下御門

慶応3年(1867)に創建せれたが、昭和50年(1975)の大風で倒壊破損した。 現在の門は復元されたもの。


L内堀越しに望む鳥取城


M山上ノ丸の石垣

この日は滑落事故の影響で山上ノ丸へは行けなかったが、機会があれば再挑戦したい。  ちなみに昭和44年〜昭和50年の間、ロープウェーが営業されており、当時は山上ノ丸まで一気に行けたのだという。


N吉川経家像

鳥取城の長い歴史の中で、ほんの数ヶ月だけ城主となった吉川経家だが、 秀吉の兵糧攻めにあい長い間飢えた後に切腹させられるなど、その悲惨さはずば抜けている。
 ちなみに、笑点の出演者、司会者として長年活躍していた故五代目三遊亭円楽師匠は、彼の子孫の一人であるため、 師匠の顔をモデルにこの銅像が造られたのだという。 言われてみれば似ている。  


Oお城まつりの仮装行列

そろそろ帰ろうと思うと、武士に扮した女子たちが入城して来たのでしばらく眺めていた。



Pお城まつりの出店

焼きそばやフランクフルトなどといった美味しそうな屋台が数多く並んでいた。

交通アクセス

JR山陰本線「鳥取」駅から日交バス、日ノ丸バスで約5分「西町」下車、徒歩約5分で上り口、 上り口から山上の丸まで徒歩約30分。 このほか休日、夏季運行の鳥取市100円バスがある(要確認)。

駐車場 有

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
公共機関でも自動車でも問題ない
住所
鳥取県鳥取市東町

地図中の63番

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