日本100名城 040番 山中城(―) 静岡県三島市


複列型の障子堀


単列型の障子堀


岱崎出丸


日本100名城 040番
山中城(―)
国指定史跡

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(歴史)

文献によると山中城は、小田原に本城があった後北条氏が、 戦国末期の永禄年間(1558〜1570)に、西方に対する防備の要塞として、箱根外輪山の西側斜面に築いた山城である。  それは、標高580mに位置し、その尾根筋を巧みに利用して曲輪を配置したいわば、 自然の要害に囲まれた山城であったが、天正18年(1590)三月、全国統一を目指す豊臣秀吉の 圧倒的大軍の前に、一日で落城したと伝えられている。

三島市の昭和48年からの発掘調査の結果、本丸や岱崎出丸をはじめとした各曲輪の様子や、 架橋、箱井戸、田尻ノ池の配置など、山城の全容がほぼ明らかになった。  中でも特に、城の要所に施された障子堀や畝堀の発見は、水のない空堀の底に畝を残し、 敵兵の行動を阻害するという、北条流築城術の特徴の一つを示すものとして非常に注目されている。


(100名城訪問日記)

(※) (100名城訪問日記)ではいつも、史跡巡りそのものからあまりにも脱線した内容になってしまうが、今回は特に酷かったので、 興味のない方は読み飛ばしていただきたい・・・。

この日は新幹線で静岡方面へ向かい、山中城と駿府城を巡ることにした。
 この行程を決定したのは前日。 寸前まで、山口県方面の国宝巡りか、高知県方面の高知城と仏塔巡りかで迷っていたが、 交通費の関係で、一番リーズナブルだった静岡方面に決定した。

まずは山中城。  東海道新幹線「三島」駅に到着した私は、南口にある東海バス窓口で、「みしまるきっぷ」を購入した。
 「みしまるきっぷ」とは、三島駅周辺の東海バス指定フリー区間を、大人900円で、乗り降りし放題というフリー切符であり、 「三島駅」バス停から「山中城跡」バス停までの片道料金が610円、往復で1220円であるので、仮に山中城のみに行って 帰ってきたとしても、320円も安くなるという、大変お得なものである。
 私は窓口でその切符を購入し、横に積まれた『みしまるきっぷ』ガイドちらしを手に取り、 その真ん前にある東海バス5番乗り場へ行った。
 すると、すぐにバスが到着。  私は一番前、前輪タイヤ上の高い位置に設置された座席に座って、バスの出発を待っていると、すぐ後に、 インド人風の観光客の集団もバスに乗り込んできた。
 ほどなくしてバスが出発し、しばらくすると、そのインド人風観光客のうちの一人の、若い男性が、 一枚の紙を私に渡して、「コノバス、コレニイキマスカ?」と、片言の日本語で尋ねてきた。  その紙には、鉛筆で『待ち合わせ場所は三島大吊り橋』とだけ書かれてあった。  おそらく日本人の知り合いか、ガイドに渡されたのだろうか。
 そのインド人(※実際に彼らが何人なのかは分からないが、 面倒くさいのでここではインド人と言い切ることにする)たちにとって、極東のはずれにあるここjapanは、 言語、文字、文化など、母国インドとは全く異なる異国の地である。  目的地へ向かうためにバスに乗り込んだはいいが、掲示板に出ている文字もさっぱり解らないので、 バスの一番前に、こなれた感じで座っている現地の日本人男性に尋ねてみるのが手っ取り早いと判断したのであろう。
 しかしである・・・。 私自身も、国内とは言え、ここへ来るのは前日に決めたばかりであり、 静岡県へ来ること自体、生まれてこの方、たったの2回目である。  もちろん、山中城や駿府城への行き方や、現地の散策コースなど、最低限のことはネットで調べていたが、 バスの途中のコースなどは全く調べていない。  私は慌てて、先ほど東海バス窓口で手にした『みしまるきっぷ』ガイドちらしを眺めてみた。
 するとそのチラシには、簡略化されたバス路線図が掲載されており、出発地点の「三島駅」バス停と、 私がこれから向かう「山中城跡」バス停の間に、 「箱根西麓・三島大吊橋」バス停という文字が記されていたので、そのインド人男性に、そのチラシを見せて、 路線図の「箱根西麓・三島大吊橋」バス停の部分を指差し、「ここ、止まる」と教えてあげた。
 しかし彼にはイマイチ伝わらなかったらしく、少しキョトンとした表情に・・・。
 そうこうしてるうちに、電光掲示板に「箱根西麓・三島大吊橋」バス停の文字が。 私は降車ボタンを押した後に インド人の肩をたたき、地面を指さしながら、「ここ、ここ!」と伝えた。 するとやっと彼に伝わったらしく、 「アリガトウゴザイマス」とニコっと笑い、後ろに座る他のインド人集団にそのことを伝えて、彼らは降りていった。

私は以前、京都の南禅寺近くを歩いている時に、サイクリングをする西洋人男性に、「伏見稲荷は、 ドコデスカ?」と尋ねられて、全く答えられず、「イ・・・、イッツ ファー フロム ヒアー!」とそっけなく答え、「ソウデスカ・・・」。と、悲しそうな顔をさせてしまった過去があった。
 それに比べれば、今回は全く知らない場所で外国人に尋ねられ、一応、お礼も言われたことだし、及第点ではないかと思う。

そうこうしているうちに、「山中城跡」バス停に到着。 100名城スタンプ設置場所である売店が目の前にあり、 店の外のテーブルにスタンプが無造作に置かれていたので、さっそくそれを試印してみると、 凹凸部分がにじんで写りがよくなかった。  仕方がないので店内に入り、店内のスタンプを試印するも、薄くかすれていたが、表のスタンプよりはマシだったので、 店内のスタンプをスタンプ帳に押印した。

そしていよいよ、城内散策へ。 私は、城内のあちこちで見ることができる珍しい障子堀に圧倒され、 その見事な風景を何枚も写真におさめた。 しかし、それと同時に、山中城内で私を圧倒させたものがある。  それは、他ならぬ富士山である。 先程も述べたが、私が静岡県へ来るのはこれが2回目。  しかも、1回目の訪問は静岡県といっても、富士山から遠く離れた掛川市の掛川城と袋井市の油山寺を見学したときであり、 新幹線の窓から見たのを除いては、富士山をこれほど近い場所で見たのは、生まれて初めてといえた。
 常に富士山を身近なものとして生活している静岡県や山梨県及び、その周辺の人々にはこの気持ちは解らないと思うが、 私のようにほ富士山から遠い地方で暮らし、その巨大な山の雄姿を、肉眼でほとんど見たこと無い者にとっては、 その日本人なら誰もが知る富士山の山容が、眼前の空のキャンパスを圧倒的存在感で占めている風景は、 現実であるにも関わらず、ある種、虚構じみており、まるで美しい絵画を見ているかのような感覚におちいった。
 だから私も、先ほど富士山観光に来てたインド人たちと同じである。  城内で富士山が見える度にいちいち興奮して、写真を撮ってしまい、気づいたら、 富士山の写真の数は、今回の観光のメインである山中城の史跡の写真の数を超えてしまっていた。

ただし、雲が多かったこともあり、富士山の写真は、一枚たりとも美しく撮れなかった・・・。


訪問日&撮影日 2016年02月06日

(※百名城スタンプ設置場所)
山中城跡売店の中、又は売店外

@出丸御馬場跡

(以下立て看板より抜粋)ここは古くから御馬場跡と伝承され、土塁で東側と北側を守り、西側は深い空掘につづき、 南側は急勾配な谷で囲まれた岱崎出丸最大の曲輪である。


A出丸御馬場堀

堀内に畝が検出されたことから、西櫓堀・西の丸堀と同様畝堀であったと考えられる。


B構築途中の曲輪跡

ここでは御馬場曲輪堀を掘った時に出たブロック状のロームにより小高い丘のように造られ、 北側には土塁が積まれている。尾根を削り成形しながらここに曲輪を構築すべく工事を急いだ様子が うかがわれるのだそうだ。


C岱崎出丸

山中城出丸は、通称、岱崎出丸と呼ばれ、標高547〜557m、面積20400uにおよぶ広大な曲輪であり、 天正17年(1588)、秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ増築された曲輪である。


D擂鉢曲輪

山中城出丸の最先端を防備する重要な位置にある曲輪である。  中央部を凹ませて低くし中心からゆるやかな傾斜で土塁までたちあがり、中途から傾斜を強め 土塁の頂部に達している。 上方から見たようすが擂鉢によくにていることから、 『すり鉢ぐるわ』とよんでいる。


E擂鉢曲輪見張り台

出丸の先端に位置する。 土塁上の一角をやや拡げて、土塁と兼用させたものである。


F擂鉢曲輪見張り台から見た富士山

富士山が見える度にいちいち立ち止まって撮った写真の一つ。 この日は雲が多く、あまり視界がよくなかった。


G岱崎出丸「一の堀」

一の堀は、昭和56年の第九次発掘調査により検出された。


H三の丸堀

三の丸堀は、自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて二重堀としている。


I元西櫓下の堀

山中城では曲輪の周囲が、大体こういった堀で囲まれている。


J西の丸畝堀

西の丸内部に敵が進入することを防ぐために完全に曲輪の周囲を堀によってとりまいている。  現在は芝生や樹木を植栽してあるが、当時はすべりやすいローム層が露出していた。


K障子堀から見た富士山

全国でも類を見ない障子堀の迫力に見とれつつも、ここでも富士山が見えたらいちいち感動し写真にパチリ。


L複列型の障子堀

後北条氏の城には、堀の中を区画するように畝を掘り残す、いわゆる「障子堀」という独特の堀が掘られている。  西の丸と西櫓の間の堀は、中央に太く長い畝を置き、そこから交互に両側の曲輪にむかって畝を出し、 障子の桟のように区画されている。 また、中央の区画には水が湧き出ており、溜まった水は 南北の堀へ排水される仕組になっている。 このように水堀と用水池を兼ねた掘が山城に作られる ことは非常に珍しく、後北条氏の城の中でも特異な構造である。


M掘立柱建物跡


N単列型の障子堀

堀に直交する形で田の畝のような形をした土塁を設けたもの。 敵が堀内を自由に移動するのを防ぐ。


O複列型の障子堀

単列側のものよりもさらに畝を組み合わせて、障子の桟のように障害物を設けた掘。


P北の丸跡

標高583m、天守櫓に次ぐ本城第二の高地に位置し、面積1920uを誇る。 天守櫓に近い場所にある重要な曲輪。


Q本丸と北の丸を結ぶ架橋(復元)

発掘調査の結果、本丸と北の丸を結ぶ架橋の存在が明らかになり、その成果を元に復元されたのが、 この木製の橋である。 山中城の堀には、土橋が多く構築されていたが、木製の橋は土橋に比べて簡単に破壊できるので、 戦いの状況に応じて破壊して、敵兵が堀を渡れなくすることも可能であり、重要な曲輪には木製の橋も架けられていた。


R本丸跡

標高578m、面積1740u、天守櫓とともに山中城の中心となる曲輪である。  周囲は堅固な土塁と深い堀に囲まれ、南は兵糧庫と接している。


S天守櫓跡

標高586m、山中城第一の高地に位置している。 天守は独自の基壇の上に建てられており、 この基壇を天守台という。 基壇は一辺7.5mのほぼ方形となり、盛土によって50〜70cmの高さに構築され、 その周囲には、幅の狭い帯曲輪のような通路が一段低く設けられている。  天守台には、井楼、高櫓が建てられていたと推定されるが、櫓の柱穴は発掘調査では確認できなかった。


21.兵糧庫跡

兵糧庫には、兵糧や弾薬などを蓄えておく施設があったと考えられている。


22.本丸堀

本丸周囲はこのような深い堀に囲まれていた。

交通アクセス

JR東海道本線・東海道新幹線「三島」駅南口から沼津登山東海バス「元箱根行き」で 約30分「山中城跡」バス停下車すぐ

駐車場 有

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
公共機関でも自動車でも問題ない。三島駅からバス利用の場合、「みしまるきっぷ」大人900円を購入すると便利である。
住所
〒411-0011 静岡県三島市山中新田字下ノ沢ほか

地図中の40番

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