国宝 旧富岡製糸場 繰糸所・東置繭所・西置繭所(群馬県富岡市)


繰糸所(国宝)


東置繭所(国宝)


西置繭所(国宝)


繰糸所(国宝)内部


旧富岡製糸場
繰糸所・東置繭所・西置繭所
国宝
1872年(明治05年)

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(歴史)

明治3年、明治政府は殖産興業政策に基づき西欧の先進技術を導入して、本格的な器械製糸工場を建設する計画を立てた。  当時、生糸は貿易で需要が高く、生糸生産の近代化は外貨獲得の有効な手段だったのである。  そこで政府が高品質な生糸を大量生産できる器械製糸技術を国内に広めるために設立した官営模範製糸場が、富岡製糸場だった。
 工場建設にあたり、技術指導に器械製糸先進国フランスの技術者を招き、また、技術伝播のために、全国から伝習工女を 募ったが、当初はフランス人が飲むワインを血と思い込んで、『富岡製糸場に入場すると外国人に生き血をとられる』というデマが ながれたため、なかなか人が集まらなかったという。 政府はこれを否定し、製糸場建設の意義を記した「告諭書」を何度もだし、 また、初代製糸場長の14歳になる娘、尾高勇を工女第一号として入場させて範を示した。  こうして、当初の予定だった明治5年の7月より遅れて、同年10月4日から創業が開始された。
 その後日本各地に、富岡製糸場を倣って器械製糸工場が建てられたが、富岡製糸場で製糸技術を学んだ工女が 郷里戻って、設立された器械製糸工場で活躍するケースも多かったという。

明治26年になると富岡製糸場は民営化され、三井家、そして原合名会社へと経営が移り、昭和14年からは片倉工業により 経営され、昭和62年に創業を停止するまで続いた。
 平成17年になると富岡市が保存・管理を引き継ぎ、その後、平成26年6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」 として世界遺産に登録。 同年10月17日にはさらに、繰糸所、東置繭所、西置繭所と、3棟の建造物が、 国宝に指定された。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

一泊二日の北関東史跡巡り2日目。

初日は午前中に都内で諸用を済ませた後、東村山市でレンタカーを借り、 正福寺地蔵堂(国宝)→川越城(日本100名城)→ 鉢形城(日本100名城)→金鑽神社多宝塔(重要文化財)と巡り、 群馬県藤岡市のビジネスホテルで一泊。

二日目のこの日は、早々にホテルを出発し、まずは 箕輪城(日本100名城)を巡った後、富岡製糸場(国宝)へ車を走らせた。

さてこの富岡製糸場。 平成26年6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録され、 同年10月17日にはさらに、繰糸所、東置繭所、西置繭所という3棟の建造物が国宝に指定されたばかりである。
 県内初の国宝が誕生し、更に、初の世界遺産が誕生したとあって、群馬県内は大いに盛り上がっているようだった。
 国宝及び、世界遺産という肩書きは、当然のごとくその観光客数にも影響し、平成26年度の入場者数は、 前年度の約4倍にも膨れ上がったのだという。  その盛り上がりは現在も継続中で、今回の旅行で私が巡った史跡の中では、間違いなく ダントツの観光客数の多さだった。

その観光客数の多さをまず実感したのは、一番近くの無料駐車場が満車状態で、それを待つ車が長蛇の列をなし、 停められなかった時である。  さすがにその駐車所が空くのを待っていたら、この後に予定している史跡を巡る時間がなくなってしまうので、 私はあきらめて他の有料駐車場を探してみることにした。  そして街中を車で回っていると、製糸場から徒歩7分程度の場所にある駐車場を見つけて駐車。  早速製糸場へ向かおうと車を降りると、駐車場の係員の人がパンフレットをくれて、 富岡製糸場へのルートを詳しく教えてくれた。
 街中をしばらく歩くと、ほどなくして明らかに周囲と雰囲気の違う巨大な建物が見えてきた。  国宝3棟の一つ、西置繭所である。
 惜しむらくは工事中で、ところどころネットや足場が組まれていたことだが、 その圧倒的スケール、雰囲気、美しさと、どれをとっても国宝建築に恥じぬ素晴らしさだ。  私はおのずと歩くスピードが増し、周囲の土産物店に横目もくれずに、 国宝・東置繭所前にある入場受付に到着した。
 そこではまた観光客数の多さを実感。 入場受付窓口周辺では、入場券を買うのに並ぶ人々や、 東置繭所をバックに記念撮影する人など、まるで以前行った京都の二条城レベルの混雑具合である。
 あらためて国宝の肩書きはすごいと思ったが、国宝に指定された建造物でも、 観光客がほとんどいないものも多くある。
 ここまで観光客が増えたのは、国宝指定よりもむしろ、 世界遺産の肩書きの影響力の方が大きかったのかもしれない。
 しかし一番の理由は、国宝や世界遺産が全く無かった群馬県内に、一挙に、国宝と世界遺産という、 二つの誇り高き肩書きを持つ史跡が誕生したという点に尽きるだろう。
 私はそこで見学料1000円を支払うと、見学券とパンフレット、そして、 「方言缶バッチスタンプラリー」なる用紙をもらった。  それは、ガイドツアーに参加し、工事中の西置繭所内を見学(見学料別)し、東置繭所2階の見学をすると、 それぞれでスタンプが押してもらえ、3つのスタンプすべてを揃えると、 「方言缶バッチ」なるものがもらえるという土日祝限定のイベントの用紙である。
 大変興味があったのだが、それらすべてに参加していると、 本日の後に行く予定の史跡巡りの時間に影響がでそうなのであえなく断念。 『方言缶バッチ』がどんなのか知りたかったが残念だ。

とにもかくにも、東置繭所から始まり、西置繭所(外観のみ)、社宅群、 検査人館(外観のみ)、女工館(外観のみ)、繰糸所、診療所(外観のみ)、ブリュナ館(外観のみ)、 寄宿舎(外観のみ)の順で見学。
 その中で特に圧巻だったのは繰糸所(国宝)である。  小屋組には当時の日本には無かった「トラス構造」という建築工法が採用されたため、 長さ140.4m、幅12.3mという巨大な建物であるにもかかわらず、建物内部は中央に柱が全くない 非常に広い空間が保たれている。
 創業当時は世界最大規模の製糸工場だったっというが、 それも納得の迫力だった。

以上、結構足早に見学したがそれでも見学時間は、約1時間半を要した。  ガイドツアーに参加し、工事中の西置繭所内も見学したら、ゆうに2時間30分以上はかかっていただろう。  今回の史跡巡りの中でも富岡製糸場は、最も見ごたえのあるものだったといって間違いない。

以前テレビ番組『月曜から夜ふかし』で、2012年の都道府県魅力度ランキングで、 群馬県が全国最下位になったという話題で盛り上がっていた。
 ネットでは未開の地として『グンマー』と揶揄され、日本最後の秘境などとして扱われるなど、 惨憺たるイメージの群馬県だが、富岡製糸場が世界遺産と国宝に指定されたおかげで 県外から以前よりも多数の観光客が訪れるようになり、 今後、群馬県が魅力度ランキングで最下位になることは、ほぼ無いといっていいのではないだろうか。
 群馬県にとっての富岡製糸場は、栃木県の日光東照宮のように、 都道府県魅力度ランキングに影響を与えるぐらい大きな存在になったといえるかもしれない。
 今回、富岡製糸場を見学してみて、それだけの魅力がそこにはあったと断言できる。

最後に私は、東置繭所内の売店で今回の旅行で巡った史跡の中で唯一のお土産を購入。
 駐車場へ戻り、次の目的地である足利氏館(日本100名城)へ向けて車を走らせた。


初回訪問日&撮影日 2016年08月14日

(※国宝建造物撮影ポイント)
撮影自由

@受付付近

見学者は途切れることなく次々に訪れる。


A東置繭所(国宝)

明治5年(1872)建築。 長さ104.4m 幅12.3m 高さ14.8m。  木で骨組みを造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」という工法で建てられた。


B東置繭所(国宝)

1階は事務所・作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵していた。


C西置繭所(国宝)

東置繭所と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用した。 建物の構造・大きさは、東置繭所と同じである。  1階部分は当初、蒸気機関の燃料用石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとして使われた。


D社宅群

役職者用に建てられた社宅群である。


E東置繭所(国宝)

別角度から。 使用された煉瓦は、日本の瓦職人が甘楽町福島に窯を築いて作り、煉瓦積みの目地には 下仁田町の青倉、栗山産の石灰で造られた漆喰を使った。


F東置繭所(国宝)

さらに別角度から。 また、その礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われた。


G繰糸所(国宝)

繰糸所は、繭から生糸を取る作業が行われた場所である。 明治5年(1872)に建築され、 創業当初はフランス式繰糸機300釜が設置され、世界最大規模の工場だったという。  明治5年から操業停止の昭和62年(1987)まで115年にわたって一貫して生糸生産を行った。  建物には従来の日本にない「トラス構造}という小屋組みが使われており、 さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上の蒸気抜きの「越屋根」が取り付けられた。


H繰糸所内部

現在繰糸所内に残る自動繰糸機は、昭和40年以降に設置されたもの。


I診療所

現存のものは昭和15年(1940)に建てられた3代目の診療所である。  当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたっていた。  官営時代において、治療費・薬代は工場側が負担していたという。


J首長館(ブリュナ館)重要文化財

明治6年(1873)建築。 指導者として雇われたフランス人 ポール・ブリュナが、政府との契約満了となる 明治8年(1875)まっで家族と暮らしていた住宅。 広さ約320坪で、木骨レンガ造で建てられ、 高床廻廊風のベランダを持つ風通しのよい造りになっている。  のちに建物は工女の夜学校として利用され、片倉時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われた。


K寄宿舎(浅間寮 妙義寮)

創業当初から数えて3代目にあたる工女寄宿舎で、木造2階建て、長さ55.0m 幅7.3mの長大な建物が2棟並ぶ。  北側に廊下がつき、部屋は1室15畳、1棟16部屋の計32部屋。 南側が「妙義寮」、北側が 「浅間寮」と呼ばれていた。


L榛名寮(左)と、重要文化財・ブリュナ館(右)

榛名寮は、首長館(ブリュナ館)西側に隣接して建てられた女性従業員のための寄宿舎2棟のうちの1棟。  もう1棟の鏑寮は解体され現存しない。 大正7年築で、痕跡から、養蚕農家と思われる民家を移築 ・改造したと考えられる。 2階は、もともと間仕切りや天井の無い大空間で、 20畳以上ある大部屋4部屋に区切られている。


M繰糸所(国宝)と東置繭所(国宝)

敷地内の国宝指定3棟の繰糸所、東置繭所、西置繭所は、3棟とも富岡製糸場操業当時に建築されたもので、 重要文化財指定3棟の、ブリュナ館、検査人館、女工館は、その翌年明治6年(1873)に建築された。

アクセス
上信電鉄「上州富岡」駅から徒歩約15分

駐車場 周辺に有料駐車場有

国宝建造物巡礼ドライブ難易度(★)

(★)・・・・・・・・・・非常に易しい
(★★)・・・・・・・・易しい
(★★★)・・・・・・ふつう
(★★★★)・・・・難しい
(★★★★★)・・非常に難しい

国宝巡礼おすすめアクセス方法
周辺には一部無料の観光駐車場もあるが、満車の場合が多い。その場合は無理せず有料駐車場を使用したほうがいい。


370-2316 群馬県富岡市富岡1-1

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