日本100名城 075番 萩城(指月城) 山口県萩市堀内字旧城1−1


内堀と天守台


天守台

日本100名城 075番
萩城(指月城)
文化財史跡区分(国指定史跡、国選定重要伝統的建造物群保存地区)

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(歴史)

関ヶ原の戦いで敗戦した毛利輝元は広島城を失った。 そこで輝元は新たな居城として防府、山口、萩の三か所を候補地として 徳川幕府の意向を伺い、萩指月山麓に築城することになった。  慶長9年(1604)に指月山の山頂の詰丸から工事が始まり、慶長13年(1608)に完成。 これより文久3年(1863)、 第13代藩主敬親が幕府を山口に移転するまでの260年間、藩の政治の中心地だった。  明治7年天守閣と居館は解体される。

萩城は、平山城の形式に属し、阿武川デルタの根元を横断し外堀とし、その外を城下町とし内を城郭とした。  外堀のうちに三の丸を置き、中堀を掘って二の丸を設け、二の丸の内側に内堀をめぐらして本丸を指月山麓に構えた。  さらに指月山頂には詰丸を設けている。


(100名城訪問日記)

まずこの日の行程なのだが、

JR新大阪駅(7:15) → 新幹線さくら545号(N700系)(鹿児島中央行) → JR新山口駅(9:17)
『新山口駅』バス停(9:40) → JR中国高速バス(スーパーはぎ号) → 『萩バスセンター』バス停(10:45)
『萩バスセンター』バス停(11:08) → 萩循環まぁーるバス(西回り) → 『萩城跡・指月公園入口』バス停(11:16)
・・・・以下略

というものだった。
 この萩城跡は、天守が明治7年まで現存していただけあって、天守台や石垣などの現存状態もよく、 大変すばらしい城跡だった。 周知のとおり萩城の非現存天守は、たいへん鮮明に写った古写真が残っている。  最初に本丸門手前の橋から天守台を眺めていると、その古写真の天守がうっすらと浮かんでくる錯覚すら覚えた。
 ただしその後受付をすませてスタンプ押印後の、城内散策の記憶が非常におぼろげで、はっきりと思い出せない。
 なので、萩城の100名城訪問日記はここまでにする・・・。
(おわり)

さて、なぜこのように雑な形の発表になってしまったのかというと、実はこの文章を打ち込むのが、萩城見学の日(2020年2月2日) から半年以上もすぎた2020年9月6日になってしまったからである。  半年も過ぎてしまうと、その日の何時にどこのバス停、あるいは駅へ行ったかなど、とてもじゃないが思い出せない。  さらにこの日は、萩城内、城下にはじまり、萩反射炉、松陰神社、松下村塾、伊藤博文旧宅などを、まる1日かけて見学したのだが、 それぞれの史跡を見学してみてどうだったかなどの詳細も、ほとんど思い出せないのである。
 『萩城跡・指月公園入口』バス停(11:16)までは、メモ帳に控えていたので、記すことができたが、 それ以降は、当時の時刻表を眺めても、どうしても思い出せない。  だからといって、時刻表のテキトーな時刻をあてはめてテキトーな内容の行程を発表するということはしたくない。  さらには、それぞれの史跡を見学した感想に関しても、実際にその場で感じたものではない、 テキトーな偽の感想を並べて発表するのはもっとしたくないのである。

では、なぜ萩城見学から半年以上も経てからの100名城訪問日記の発表になってしまったのかというと、 言うまでもなく、2020年に世界的に猛威を振るっている新型コロナウィルスの影響である。
 萩城へ行った2月2日の時点では、まだ国内では感染者がチラホラ出てきたばかりで、 観光地の観光客も多少減ってはいたが、それなりにいた。  しかしその後は、日が経つにつれてどんどん感染者が増えていき、この文章を打ち込んでいる9月7日時点でも、 収束のめどは全く立っていない。
 幸いにも現在の段階で、私あるいは親戚知り合いに、感染者はいないのだが、だからといって、 のんきに日本各地に史跡巡りなどに出かけて、ウィルスをもらってきて身内に迷惑をかけたくないし、 自分自身がウィルスの運び屋になって、行先の人々に迷惑もかけたくもない。
 なので、このサイトの更新は、しばらくの間、ストップしようと思う。
 再開時期は未定である。


訪問日&撮影日 2020年02月02日

(※百名城スタンプ設置場所)
本丸入口料金所

@本丸門跡

正面に受付(100名城スタンプ設置場所)がある。


A天守台

この天守台の上には、高さ14.4m、下層は東西19.8m、南北16.2mで、五層の白亜の天守閣があった。  最上階は高欄を巡らした桃山期の形式を示すものだった。 明治7年に解体。


B天守台の礎石群


C天守台上から見た内堀


D花江茶亭

藩主の別邸にあった茶室を明治20年ごろに移築したもの。


E志都岐山神社


F銃眼(鉄砲狭間)土塀

萩城の石垣の上には、鉄砲を撃つための四角い穴を開けた銃眼(鉄砲狭間)土塀が巡っていたという。  この土塀は、昭和40年に一部復元したものである。


G旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)

厚狭毛利家は、毛利元就の五男元秋を始祖とする毛利家の一門である。主として厚狭(現在の山口県山陽小野田市)に知行地を持ち、 ここに居館を構えていたので、厚狭毛利家と呼ばれていた。  厚狭毛利家萩上屋敷は、萩城の二の丸南門の南100メートルの要地にあり、面積約1万5500u(約4700坪)もある広大なものだった。


H旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)

屋敷地の中にあった主屋や庭園などは、明治維新前後に解体されてこの長屋のみが残る。  この長屋は昭和41年(1966)6月に国の重要文化財に指定され、翌42年7月から解体修理に着手。 その際に発見された棟札から、 長屋は10代元教(のちの元美)の代、安政3年(1856)5月に建てられたことが分かった。
 建物規模は桁行51.4メートル、梁間5.0メートルと長大な構造で、屋根は入母屋造本瓦葺で、出格子5か所、格子窓6か所を設けている。  内部は東の屋敷(部屋数10)、中の屋敷(部屋数6)、物置(土間、二階造)、西の屋敷(部屋数3)および板の間の5つのブロックに分かれている。


I旧福原家の萩上屋敷門(県指定有形文化財)

この門は萩藩で代々家老を務めた福原家の萩上屋敷の表門である。 福原家の本拠は領地の宇部にあったが、 当主は代々萩藩の重臣として平素は萩に住むのが常だった。 福原家はこの上屋敷の他、萩城下内に中屋敷と下屋敷があった。  形式は切妻造、本瓦葺の三間三戸の出入口をもつ腕木門で、両袖に潜戸が付いている。 建築年代は江戸中期頃。  重臣の家の門にもかかわらず、門番所がないのは珍しい例である。


J萩駅


K萩反射炉

交通アクセス

萩市内循環「まぁーるバス(西回り)」「萩城跡・指月公園入口」下車、徒歩約4分

駐車場 有り

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車か公共機関、どちらでも問題ない
住所
〒758-0057 山口県萩市堀内字旧城1−1

地図中の75番

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