重要文化財 日光東照宮 五重塔 (日光市山内2301)


日光東照宮(―)
五重塔
重要文化財
1818年 文政元年

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(歴史)

日光東照宮は徳川家康の遺言を受け、元和3年(1617)に二代将軍秀忠が、駿河・久能山から日光に改葬し創建した家康の霊廟である。 当初は質素な堂だったが、寛永の大造替(1634〜36)で三代将軍家光によってきらびやかな建物に建て替えられた。  現在の金額で400億円相当もの工費が投入され、1年5か月という短期間で完成したという。  境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物がある。

重要文化財建造物の一つである日光東照宮五重塔は、もともと慶安3年(1650)に酒井忠勝によって建てられたが、 文化12年(1815)に落雷のために焼失。 子孫の酒井忠進によって文政元年(1818)に再建されたのが現在の塔である。
 それは、極彩色と金箔で彩られた江戸期を代表する五重塔であり、高さ36mの塔の内部には、 直径60cmの心柱が天井から鎖で吊るされている。 この構造は、耐震性を考えたものではなく、 建立後の経年変化を防ぐために考案された方式である。
 組物は初〜四層が和様三手先、軒は2軒繁垂木の平行垂木だが、五層だけが禅宗様三手先、軒は扇垂木になっており、 尾垂木も四層までは一段で、五層は二段として禅宗様の正規の手法を用いている。  中備えは三間とも十二支の禽獣が極彩色で彫られた蟇股、二・三層も実に華麗だが、三間とも蓑束、四・五層は 中央間のみ蓑束と省略され、初層ほどの装飾ではない。 この塔は初〜四層までを拳鼻や尾垂木など細部に禅宗様などを用いた 和様で、五層は正規の禅宗様の手法が用いられている。



(仏塔訪問日記)

東武日光駅から世界遺産めぐりバスに乗り込み「神橋」バス停で下車、神橋(重要文化財)を見学後、 日光山に入り、まずは日光東照宮御旅所本殿、拝殿、神饌所(重要文化財)を見学後、 輪王寺(四本龍寺)三重塔(重要文化財)へ行き、そこからさらに徒歩で小玉堂(重要文化財)立ち寄ってから、 日光山輪王寺へ。 そこで三仏堂、鉄多宝塔、相輪塔などを見学した後、 さらに徒歩で、日光東照宮へ来た。
 日光東照宮では重要文化財や国宝に指定された建造物が多数あるので、入り口の石鳥居から始まって、 順番にもれのないようにひとつひとつの重文、あるいは国宝指定建造物を見学していった。
 五重塔は石鳥居をくぐってすぐの、向って左側に聳える。  非常に珍しい極彩色の五重塔は、陽明門と並び、日光東照宮において最も有名な建造物の一つである。

ところでこの東照宮五重塔。 彩色・金箔に飾られるなど、贅を尽くした江戸時代の仏塔の伝統を踏んではいるが、 塔身部が細長く、相輪は短小であり、安定感のない江戸後期の形の悪い五重塔の一つに数えられている。
 では、一体なぜ、東照宮五重塔は、形が悪く、見た目不安定な五重塔に見えてしまうのだろうか。
 以下で、順を追ってその理由を検証していきたいと思う。

まずは、以下の2基の五重塔を比べてみてほしい。

左は、法隆寺五重塔(国宝)であり、7世紀末(飛鳥時代)に建立された、日本最古の五重塔であるとともに、 世界最古の木造建築としても知られる。高さは、32.6mである。
 右は、本山寺五重塔であり、1910年(明治43年)に建立された。 高さは38m。
 二つの五重塔を見比べて、はたしてどちらが、安定感がある塔に見えるだろうか。
 おそらく、私のような仏塔素人100人に質問したとしても、95人以上は、法隆寺五重塔の方が安定感があり、 見た目も美しいと答えるのではないかと思う。  法隆寺五重塔は、初層の面積が極めて広く、さらに2層から5層まで絶妙のバランスで狭くなっていき、 美しい四角錐を形成し、さらにその上に長くて力強い相輪が立っている。
 それに対して、本山寺五重塔は、見た感じでは初層から5層までの面積の差は ほとんど感じられず、その見た目はまるで細長い棒が地面に刺さっている様である上に、相輪も小さく弱弱しい。  まるで、ムカデのような節足動物が立ち上がったかのような不安定感すら感じてしまう。
 一般的に五重塔は、法隆寺五重塔が建てられた飛鳥時代から、本山寺五重塔が建てられた明治時代終わりに至るまで、 時代が新しくなるにつれて、その塔身がどんどん細長くなっていき、相輪が短小になっていった・・・、 つまりは、不格好になっていったといわれているのである。  そして昭和、平成になると逆に、飛鳥時代から室町時代にかけての古い仏塔のプロポーションの良さが見直され、 あちこちの寺院で、法隆寺五重塔や、醍醐寺五重塔といった、安定感がある古い仏塔を模した五重塔が建てられるようになるが、 日光東照宮五重塔や本山寺五重塔のような細長い五重塔はあまり建てられなくなる。
 ではなぜ、五重塔建築の歴史の中でも、日光東照宮五重塔が建てられた江戸時代の終わりから、 明治時代末に至る期間に建てられた五重塔は、どんどん細長く安定感のないデザインになっていってしまったのだろうか。
 そこには、塔を細長く建てても決して倒れない宮大工の技術の進歩が関係しているとされる。
 地震大国の日本において木造の塔を建てる際には、常に地震にさらされた場合を想定し、 その被害を回避する建築技術が必要とされる。 法隆寺が建てられた飛鳥時代には、まだおそらく、 日光東照宮五重塔や本山寺五重塔のような細長くて地震に強い五重塔を建てる建築技術は存在していなかったと思われる。 それが千年以上の仏塔建築技術の進歩により、その塔身がどんどん細くなり、その上、地震にも強い五重塔の建築が可能と なっていったわけである。
 ただしその『細くても倒れない仏塔建築技術の進歩』は、皮肉にも、五重塔の意匠をどんどん不格好にしてしまう結果になってしまったのだ。

さて、五重塔の見た目の安定感を示す指標として、『逓減率』という言葉がある。  この言葉は仏塔マニアにとってはなかば常識で、私を含めた仏塔素人でも、一度は耳にしたことがある人もいるのではないかと思う。
 五重塔においての『逓減』とは、初層から五層目にいくにつれてすぼまっていくことを指し、 『逓減率』とは、初層の幅に対する五層の幅の割合のことである。
 以下の図で、五重塔の見た目の安定感を示す指標である、逓減率と、それ以外に二つの指標を導き出す 計算式を示した。


 左の図Aを参照していただくと、逓減率は初層幅(d1)に対する五層の幅(d2)の割合であるから、
 計算式@ 逓減率=d2/d1 となる。

逓減率以外に、五重塔の見た目の安定感を判断するにあたって他に、
A五重塔総高(h)に対する塔身の高さ(b)の割合
B初層幅(d1)に対する塔身の高さ(b)の割合といった指標もあり、それらの計算式は、

計算式A 総高に対する塔身の高さの割合=b/h
 計算式B 初層幅に対する塔身の高さの割合=b/d1 となる。


図A

以上を踏まえた上で、法隆寺五重塔と本山寺五重塔にさらに、醍醐寺五重塔と日光東照宮五重塔を加えた、建立年代の全く異なる4基の五重塔の、 逓減率を比較してみたいと思う。
 まず、最も古い法隆寺五重塔は、0.503。 この数値は、初層の幅を1とした場合の五層の幅の値であるから、 ほぼ半分ということになる。
 次に古い醍醐寺五重塔は、0.617、その次の日光東照宮五重塔は、0.625、最も新しい本山寺五重塔は、0.800という値なので、 明治時代以前に建てらてた現存五重塔の中では、最も逓減率が高いのが、最も建立年代が古い法隆寺五重塔であり、 その次以降は、醍醐寺五重塔、日光東照宮五重塔、本山寺五重塔と続くので、新しくなるにつれて逓減率が低くなるという傾向は一応は見て取れる。 ただし、4基の中で二番目に古い醍醐寺と日光東照宮とでは、0.617と0.625と、それほど数値に差はないといえる。  おまけに、その2基の建立年代の中間に建てられた別の五重塔を見てみると、明王院五重塔が0.714、興福寺五重塔が0.690であり、 なんと、日光東照宮五重塔よりも遥かに古いそれら2基の五重塔の方が、逓減率が低いのである。
 では、以下でそれら4基の五重塔の写真を見比べていただきたい。

左から順に、醍醐寺五重塔(0.617)、明王院五重塔(0.714)、興福寺五重塔(0.690)、日光東照宮五重塔(0.625)の画像なのだが、 日光東照宮の逓減率はこの4基の塔の中では2番目に高いにもかかわらず、他の3基の塔と比較すると、明らかに日光東照宮五重塔が、 最も細長くて安定感の無い五重塔に見えてしまう。 まるで、ボディービルダー集団の中に、ガリガリ男がまぎれこんだかのように・・・。
 ということは、逓減率以外にも五重塔の見た目の安定感に影響する指標があるということになる。
 それが、上記図Aで述べた、総高に対する塔身の高さの割合(計算式A)と、初層幅に対する塔身の高さの割合(計算式B)なのである。
 そこで、以下の図Bで、既出の6基の五重塔を比較のために同じ高さにして時代の古い順に並べ、 それぞれの塔の逓減率(計算式@)と、塔身高b/総高h(計算式A)、塔身高b/初層幅d1(計算式B)の計算式で導き出された数値を、 表にして比較してみた。


図B

まず、上記で述べたとおり、各塔の『逓減率』に関しては、最も古い法隆寺が0.503とずば抜けて高く、最も新しい本山寺が0.800とずば抜けて低い以外は、 各塔数値がバラバラだったので、『逓減率』の数値のみで五重塔の見た目の安定感の指標とは成りえないと考えられた。
 次に、各塔の塔身高b(=総高h−相輪高a)を総高hで割った数値(計算式A)を比較してみる。  ちなみにこの計算式Aでは、その塔の相輪部分の高さが総高に対してどれだけの割合なのかを導き出される。  つまり、計算式Aで導き出された数値が、小さい程、総高に対する相輪部分高の割合が高い、 つまりは、どっしりとした相輪部分が、塔全体の見た目にも安定感を与えるという考えなのである。  各塔を比較すると、巨大でどっしりとした相輪部分を持つ五重塔として有名な醍醐寺がダントツで数値が低く、 醍醐寺の相輪がその総高にたいして最も高い割合を示す、つまりは、大きくて安定感のある相輪だということが証明された。  しかし、他の5基の五重塔に関しては、その数値がバラバラであり、 「五重塔は新しくなるにつれて相輪部分が短くなっていく」という説は立証されなかった。  新しい五重塔の相輪部分が短く見えるのは、おそらくではあるが、最上層部の屋根の形状や大きさによる目の錯覚などが原因ではないかと思われる。  

最後に、各塔の塔身高b(=総高h−相輪高a)を、初層幅d1で割った数値(計算式B)を比較する。  この計算式Bでは、その塔の塔身高が、初層幅に対してどらぐらいの割合かを導き出す。  つまりは、この数値が小さいほど、塔身高に対する初層幅の割合が高いということになり、 結果、塔身自体が幅広くがっちりした見た目になるということになる。  各塔を比較すると、最も古い法隆寺が最も数値が低く、塔身高に対する初層幅の割合が高いという結果になり、 逆に、本山寺が最も数値が高く、塔身高に対する初層幅の割合が低いという結果になった。  他の4基の塔も、建立年代が近い明王院と興福寺の数値が前後はするものの、ほぼ、 建立年代の古い順に数値が高くなっていっていることがわかる。  つまり、『五重塔は飛鳥時代から明治時代にかけて、 建立年代が新しくなるにつれて塔身が細くひ弱な印象になっていった』という説は、計算式Bで立証されたわけである。

以上、『五重塔の見た目の安定感の変遷』について長々と述べてきたが、 私は、江戸後期から明治時代末にかけて建てられた日光東照宮五重塔や本山寺五重塔のような細長い五重塔のことが、 決して嫌いというわけではない。
(ボディービルダー集団に紛れ込んだガリガリ男のようだの、 立ち上がったムカデのようだのと、散々なことを言った尻からではあるが・・・・)
 五重塔に限らず、仏教建築は、時代とともに変化し、耐震性などの技術も進歩してきたのであり、 江戸期以前に建てられた日本各地の仏教建築を見学すると、その時代背景や建築様式、建築技術などが、 感じ取れる。
 法隆寺のようながっちりとした古式の五重塔ももちろんすばらしいし、 日光東照宮のような細身ではあるが、当時の耐震技術や他の建築技術が結集された五重塔も法隆寺と同じように素晴らしいのである。

私が残念に思うのは、昭和以降に建造された五重塔である。  鉄筋コンクリート造りの塔はいうに及ばず、伝統的木造建築で建てられた五重塔の数々も、どれも、 醍醐寺や明王院などといった古い人気五重塔のデザインのコピーばかり。
 どんなに古式に乗った伝統木造方式で建てられた仏塔であれ、昭和や平成のその時代の特徴というか、個性は皆無である。
 江戸後期や明治時代の五重塔のデザインは、現在人にどんなにひ弱で細長いと揶揄されようとも、 少なくともその時代を反映した個性があった。

昭和平成も終わりが近づき、令和という元号に代わるが、仏教建築にもそろそろ時代の個性というものが出てきてもいい時期ではないのだろうか。


初回訪問日&撮影日 2019年02月08日


@五重塔(重要文化財)


A陽明門(国宝)


B奥社宝塔(重要文化財)

交通アクセス
東武日光駅から世界遺産めぐりバスで8分、「表参道」バス停下車、徒歩5分

駐車場 有

仏塔巡礼ドライブ難易度 (★★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

おすすめアクセス方法
駐車場は土日は大変混み合う。500円で日光山内フリー区間乗り降りし放題の 世界遺産めぐりバス世界遺産めぐり手形の利用がおすすめ。

住所

栃木県日光市山内2301


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