国宝 日光東照宮 本殿、石の間及び拝殿・東西透塀・正面及び背面唐門・東西回廊・陽明門 (栃木県日光市)



@陽明門(国宝)




A東西回廊(国宝)



B正面及び背面唐門(国宝)




C東西透塀(国宝)




D本殿、石の間及び拝殿(国宝)


日光東照宮
本殿、石の間及び拝殿・東西透塀・正面及び背面唐門・東西回廊・陽明門
国宝
寛永13年(1636年)

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(歴史)

日光東照宮は徳川家康の遺言を受け、元和3年(1617)に二代将軍秀忠が、駿河・久能山から日光に改葬し創建した家康の霊廟である。 当初は質素な堂だったが、寛永の大造替(1634〜36)で三代将軍家光によってきらびやかな建物に建て替えられた。  現在の金額で400億円相当もの工費が投入され、1年5か月という短期間で完成したという。  境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物がある。

@陽明門(国宝)  唐破風二重造の門で、高さ11.1m、幅7m、奥行4.4mの巨大な門。  その名前は、京都御所にある十二門のうちの東の門である陽明門に由来すると伝わり、 この門から先は神聖な場所として、明治時代までは庶民が通ることは許されていなかったという。  その建築には江戸初期を代表する匠たちの技が結集されており、『龍と息』、『目抜きの龍』、『麒麟』、『唐獅子』、 『唐子遊び』、『龍馬』、『琴棋書画の遊』などをはじめとした、508体もの彫刻が施されている。  その建造様式は、三間一戸楼門、入母屋造、四方軒唐破風付、銅瓦葺、左右袖壁付で、寛永13年(1636)に建てられた。

A東西廻廊(国宝)  陽明門から東西に延びて神域を一周する廻廊。  その外側には、それぞれ東に16、西に9つの透かし彫りの花鳥が 施されている。 内部はすべて朱漆塗り。 東回廊の彫刻で特に有名なのが、江戸の名工・左甚五郎によるものと伝わる 『眠り猫』で、通常は梁の上などに作られ、荷重を支える構造材の役目を果たす蟇股の彫刻として彫られている。  東西廻廊の建築様式は、各梁間一間、一重、入母屋造、銅版葺で、陽明門と同じく寛永13年(1636)に建てられた。

B正面及び背面唐門(国宝)  江戸時代の参拝基準となった門で、 ここより昇殿出来る者は御目見得以上の幕臣や大名に限られていた。  全体を胡粉摺で白く塗り、四方の軒が唐破風で作られており、 柱や扉は東南アジアから輸入した紫檀・黒檀・鉄刀木などの寄木細工。  周囲の台輪の上には古代中国の聖賢の故事を題材にした彫刻、唐破風下には徳川幕府の 政治理念を示す細かな彫刻が施されており、いずれも一本の木のくり彫り。  柱には唐木の寄木細工で昇龍・降龍の彫刻が施される。 (正面の)建築様式は、桁行一間、梁間一間、一重、 四方唐破風造の銅板葺で、寛永13年(1636)に建てられた。

C東西透塀(国宝)   唐門の東西からのびて、本殿、石の間、拝殿の四方を囲み、全長は約160mある。 花挟間格子。  柱間は87間、透塀の中央に特異な枠どりの中に花狭間格子を配し、欄間には各種の花や鳥などを取り合わせた彫刻が 施されている。 東照宮内の他の国宝建築同様、寛永13年(1636)に建てられた。

D本殿、石の間及び拝殿(国宝)  日光東照宮本社は、本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造である。  「権現造」という名称は、もともと徳川家康=東照大権現を祀る東照宮の形式という意味である。  彫刻・漆塗り・彩色・飾金具等の装飾と建築が一体化し、江戸初期の造形と意匠が集大成されている。  それぞれの建築様式は、本殿は、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、背面向拝一間の銅瓦葺。  石の間は、桁行三間、梁間一間、一重、両下造の銅瓦葺。 拝殿は、桁行九間、梁間四間、一重、 入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付の銅瓦葺である。

実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。



(国宝建造物訪問日記)

東武日光駅から世界遺産めぐりバスに乗り込み「神橋」バス停で下車、神橋(重要文化財)を見学後、 日光山に入り、まずは日光東照宮御旅所本殿、拝殿、神饌所(重要文化財)を見学後、 輪王寺(四本龍寺)三重塔(重要文化財)のある場所へ行き、そこからさらに徒歩で小玉堂(重要文化財)立ち寄ってから、 日光山輪王寺へ。 そこで三仏堂、鉄多宝塔、相輪塔などを見学した後、 さらに徒歩で、日光東照宮へ来た。
 東照宮境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟もの建造物があるので、石鳥居(重要文化財)から始まり、 文化財指定建造物の見落としがないように、順番に見学して行った。  三神庫(重文)や、御水舎(重文)、輪蔵(重文)などの他に、「見ざる言わざる聞かざる」の猿の彫刻で有名な、神厩舎(重文)といった、 極彩色に彩られ、華美な彫刻に飾られた建造物の数々。 どれも重文指定に値する素晴らしい建造物の数々だった。
 しかし、ある場所に至ると、そこに至るまでに見た建造物とは、あきらかに一線を画す、圧倒的レベルの存在感を醸し出す建造物が私の視界に飛び込んできた。
 それこそが、誰もが知る国宝建築、陽明門である。
 約13万人もの大工が手がけたと伝わり、日本の歴史上、これほどまでに見事な装飾門は過去にも未来にも存在しえないと言われるほどの豪華絢爛さ。
 上記の国宝建築評価チャート図で、お勧め度を20点満点とさせていただいたが、今まで評価した寺社で、 日光東照宮のように、本殿、石の間及び拝殿の本殿、石の間部分が 完全には見学できないといった、マイナス要素がある場合、大抵低い点数にしてきた。
 しかし、日光東照宮の場合、 本殿が見れないというマイナス要素なんて、補って余りあるほどの、陽明門の圧倒的知名度と存在感により、文句なしの満点とさせていただいた。

なんにせよさすがは、1000年以上の伝統を誇る法隆寺や中尊寺などと並び、昭和26年(1951)に戦後初の国宝指定を受けただけはある。
 2019年2月現在、日本全国に国宝に指定された建造物は226件ある。 それら226件の国宝建築は、名目上は歴史的価値の高さの順位などは存在しないということだが、 1951年(昭和26年)6月9日、文化財保護法による、いわゆる「新国宝」の、初の指定を受けた建造物に関しては、それより後に指定を受けた国宝建築とは 別格だと考えるべきだと思う。  なにせ、初めて「新国宝」を選定するにあたって、選考委員と国民誰しもが、全く異論を挟む余地がないレベルの建造物はどれかということで、 いの一番に選ばれたのが、法隆寺や中尊寺、日光東照宮を含めた、38件の国宝建築だったわけであるからである。

以下で、1951年(昭和26年)6月9日に、初の「新国宝」の指定を受けた建造物はどういったものがあるのか、指定番号とともに挙げていく。

国宝指定番号 名称 指定年月日
00001 中尊寺金色堂 1951年6月9日
00002 円覚寺舎利殿 1951年6月9日
00003 如庵 1951年6月9日
00004 石山寺多宝塔 1951年6月9日
00005 本願寺飛雲閣 1951年6月9日
00006 慈照寺東求堂 1951年6月9日
00007 慈照寺銀閣 1951年6月9日
00008 醍醐寺五重塔 1951年6月9日
00009 法界寺阿弥陀堂 1951年6月9日
00010 平等院鳳凰堂 1951年6月9日
00011 姫路城大天守 1951年6月9日
00012 姫路城西小天守 1951年6月9日
00013 姫路城乾小天守 1951年6月9日
00014 姫路城東小天守 1951年6月9日
00015 姫路城イ、ロ、ハ、ニの渡櫓 1951年6月9日
00016 東大寺南大門 1951年6月9日
00017 東大寺法華堂 1951年6月9日
00018 海龍王寺五重小塔 1951年6月9日
00019 薬師寺三重塔東塔 1951年6月9日
00020 唐招提寺金堂 1951年6月9日
00021 (空き番)
00022 法隆寺五重塔 1951年6月9日
00023 法隆寺中門 1951年6月9日
00024 法隆寺廻廊 1951年6月9日
00025 法隆寺鐘楼 1951年6月9日
00026 法隆寺経蔵 1951年6月9日
00027 法隆寺大講堂 1951年6月9日
00028 法隆寺東院夢殿 1951年6月9日
00029 法隆寺東院伝法堂 1951年6月9日
00030 法起寺三重塔 1951年6月9日
00031 室生寺五重塔 1951年6月9日
00032 東照宮本殿、石の間及び拝殿 1951年6月9日
00033 東照宮正面及び背面唐門 1951年6月9日
00034 東照宮東西透塀 1951年6月9日
00035 東照宮陽明門 1951年6月9日
00036 東照宮東西回廊 1951年6月9日
00037 妙喜庵書院及び茶室 1951年6月9日
00123 東大寺鐘楼 1951年6月9日
00203 法隆寺金堂 1951年6月9日

以上、38件の建造物が、1951年(昭和26年)6月9日に、文化財保護法による、いわゆる「新国宝」の初の指定を受けた建造物である。  指定番号の順番に優先順位はないが、指定番号00001〜00037の国宝建造物が、空き番00021を除きすべて1951年6月9日に「新国宝」に指定されたものばかりなので、 これ以降、指定の国宝建築は、おおむね番号順通りに、指定されていったといっていいだろう。  ただし、00123の東大寺鐘楼と、00203の法隆寺金堂については、大きい番号であるが、00001〜00037の国宝建造物と同じ1951年6月9日指定であるので、例外である。

なんにせよ、上記表、初の「新国宝」に指定された、指定番号00001〜00037、00123、00203の建造物群は、 おそらく建造物に詳しくない人でも一度は耳にしたことがある有名な建造物ばかりではないかと思う。  国宝建築をテーマにしたどの書籍を見ても、上記表の国宝建造物群は、日本建築史における大きな意味を持つ建造物として、 必ず取り上げられているし、本の表紙になることもある。 間違っても省略するこなどあり得ない。 それぐらい数ある国宝建築の中でも 別格ともいえる建造物群なのである。  その中に、東照宮の建造物が5件も入っているということは、法隆寺や姫路城と同じく、この東照宮の境内自体が国宝ともいえるぐらい神聖で歴史的価値の高い場所だともいえるのである。

ところで、先ほどから「国宝」や、「新国宝」、あと、「重要文化財」というワードが出てきているが、 そもそもそれらは何なのか、また、それらの違いは一体何なのだろうか。  今一度原点に戻り、建築物や美術品などに、「国宝」というものを指定するに至った経緯とその変遷について、以下でまとめてみようと思う。

上でも少し触れたが、そもそも「国宝」という語の指す意味は、文化財保護法が施された1950年、以前と以後とでは異なる。  文化財保護法施行以前の旧法では「国宝」と「重要文化財」の区別はなく、国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)はすべて「国宝」と称されていた。  その「国宝」(national treasures)の概念はアーネスト・フェノロサが考えたものである。
 そのアーネスト・フェノロサ(1853.2.18-1908.9.21)という人物を語るにあたっては、 まずは、彼が「国宝」という概念を考えるに至った経緯を知らなければならない。

時は、明治維新後の日本。 その明治維新の混乱の中、長州・薩摩を中心とする新政権は、明治元年に太政官布告「神仏分離令」を出し、 明治3年に「大教宣布」を出す。 これまで1000年以上もの間、大和民族によって維持されてきた「神仏習合」という形の宗教秩序を、 いきなり廃止せよと命じ、日本各地の神社から仏教的要素を徹底的に排斥することを命じたのである。

 内山永久寺にあったとされる八角多宝塔

 これがきっかけとなり、全国的に大々的な廃仏毀釈運動を燃え上がらせることになってしまった。  つまり「廃仏毀釈」とは、長州・薩摩を中心とした新政権の打ち出した愚策によって引き起こされた仏教施設への無差別、無分別な攻撃、破壊活動のことを指す。
 その「廃仏毀釈」によって、日本全国で、飛鳥・奈良時代以来からこれまでに至るまでの、夥しい数の仏像や仏具、仏教美術品、建造物が破壊されてしまったのである。
 中でも、奈良の興福寺や内山永久寺の惨状たるや、すさまじいものであった。  興福寺だけでも歴史的価値の高かったと思われる仏像が2000体以上も破壊、または焼却処分され、僧侶はほとんど全員が神官になったり、 還俗することを強要された。 経典の数々は、町で包装紙として使われるなどごみ同然の扱いを受け、 五重塔は25円で売りに出され、もう少しで薪になっていた可能性があるのだという(五重塔についてはその値段、真偽について諸説あり)。
 興福寺と並び4大寺の一つとされた内山永久寺に至っては、更に酷く、保延3年(1137)に建立されたとされる、非常に珍しい八角多宝塔をはじめとした 多くの貴重な堂塔が、徹底的に破壊され尽くし、今やその痕跡すら残っていないのである。

では、神仏習合の聖地であった日光の社寺に関しては、神仏分離令、及び廃仏毀釈による影響はどうだったのであろうか。
 その影響を箇条書きにして挙げると、

 輪王寺門跡の廃止
 僧侶の神勤の廃止
 輪王寺の称号廃止
 一山衆徒百十ヵ寺の合併統合
 満願寺への改称
 各院坊の寺地奉還
 二荒山神社と東照宮の独立

 など、少なからず影響は受けたものの、三仏堂、相輪塔、鐘楼、本地堂、五重塔、護摩堂、経蔵など、東照宮内の仏教施設の破壊はほぼ免れている。  その代わり、それら仏教施設を、輪王寺(当時、満願寺)の敷地内へ移転せよとの命令が下ったが、輪王寺は資金不足などから度重なる延期を申し出て、 そのうちに神仏分離令及び、廃仏毀釈も沈静化し、結果的には三仏堂と相輪塔だけを現在の輪王寺敷地内に移転するだけですんだという。
 そのように程度の差こそあれ、日本各地の寺院が廃仏毀釈によって被害を受け、歴史的価値の高い仏像や美術品、建造物などが 破壊されていったのである。

アメリカ人哲学者、フェノロサが来日したのは、明治11年(1878)。  アメリカで美術を学んでいたフェノロサは日本美術にも興味を持つようになり、東京大学で哲学、政治学などを講義する傍、 時間を見つけては奈良・京都の古社寺や古美術商を回るようになった。 その教え子には、 後にフェノロサとともに東京美術学校(現東京藝術大学の前身)の設立に尽力し、奈良興福寺の仏像修復に当たった文部官僚岡倉天心がおり、 彼は常に通訳兼、助手としてフェノロサに同行していたのだという。

 アーネスト・フェノロサ
 (Ernest Francisco Fenollosa)
 1853年2月18日 - 1908年9月21日
 
 フェノロサが来日した頃の日本では、明治元年(1868)の神仏分離令に端を発した廃仏毀釈運動は収束しつつあったものの、 明治政府は盲目的に西洋文明を崇拝し続け、 逆に日本古来の文化は自虐史観によりとことんまで軽視した。 その結果、日本人が考える「芸術」とは海外の絵画や彫刻のことであるとして、 日本古来の浮世絵や屏風といった美術品に関しては、芸術的価値の欠片も無い、取るに足らないものとして、二束三文の扱いだった。
 フェノロサよりも少し早く、明治9年(1876)に、新政権政府によって招かれて日本に来たドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツは、 このような日本の現状を憂い、その日記に、『日本人は自分たちの過去=歴史を恥じている。 また、日本には歴史などありません。  これから始まるのです、という』『自国の文化を軽視する国は、かえって外国からの信頼は得られなくなる』などと綴った。  ベルツにそうまで思わせたのは、間違いなく明治新政府の政治家であろう。  自国の文化を卑下し、軽視し続けるような愚かな政府に未来などあるわけがない。  自分たちが崇拝する西洋の偉い人に、まさかのド直球の正論をつかれて、顔を真っ赤にした明治政府の政治家の顔が思い浮かぶ。
 フェノロサに関しては、ベルツほども手厳しい言動はしなかったようであるが、 廃仏毀釈や西洋文化崇拝といった時代風潮の中で見捨てられていた日本美術を高く評価し、研究を進め、広く紹介していった。
 その研究の一環でフェノロサが参加した古社寺の宝物調査は、文化財保護法の前身である古社寺保存法の制定への道を開くこととなる。  「国宝」(national treasures)の概念はもともとフェノロサが考えたものだが、法令上、 「国宝」の語が初めて使用されたのは1897年(明治30年)のその古社寺保存法制定時である。 同法の規定に基づき、同年12月28日付けで初の国宝指定が行われた。
 ちなみにこの時点で日光東照宮はまだ、国宝の指定を受けておらず、初めて日光東照宮が国宝指定を受けたのはそらから11年遅れて、 明治41年(1908)8月1日のことである。

明治維新から古社寺保存法制定に至るまで約30年。  その間に日本人の中にも、廃仏毀釈運動や、西洋文明の盲目的崇拝によって日本古来の文化の軽視する風潮を批判する者が少なからずいたが、 愚かにも明治新政権は、それら日本人の意見にはほとんど耳を傾けてこなかった。  そのように愚か者の巣窟であった明治新政権であるが、自分たちが崇拝する西洋の文明のスペシャリストたちから、 まさかの駄目出しをされては、これまでの考えを変えざるを得なかったのだろう。  ようやくこれまでの考えを改め、少しずつではあるが、日本古来からの文化を保護し尊重するようになっていったのである。

その後1929年(昭和4年)には古社寺保存法に代わって国宝保存法が制定され、同法は文化財保護法が施行される1950年(昭和25年)まで存続した。  古社寺保存法および国宝保存法の下で指定された「国宝」は1950年時点で宝物類(美術工芸品)5,824件、建造物1,059件に及んだ。  これらの指定物件(いわゆる「旧国宝」)は文化財保護法施行の日である同年8月29日付けをもってすべて「重要文化財」に指定されたものと見なされ、  その「重要文化財」の中から「世界文化の見地から価値の高いもの」で「たぐいない国民の宝」たるものがあらためて「国宝」に指定されることとなった。  混同を避けるため旧法上の国宝を「旧国宝」、文化財保護法上の国宝を「新国宝」と通称することがある。  文化財保護法による、いわゆる「新国宝」の初の指定は1951年(昭和26年)6月9日付けで実施された。  以上のように「旧国宝」「新国宝」「重要文化財」の関係が錯綜しているため、「第二次世界大戦以前には国宝だったものが、 戦後は重要文化財に格下げされた」と誤って理解されることが多い。  旧法(古社寺保存法、国宝保存法)における「国宝」(旧国宝)と新法(文化財保護法)における「重要文化財」は国が指定した有形文化財という点で同等のものであり、 「格下げ」されたのではないのである。

以上、日本の歴史的価値の高い貴重な建築物や美術品などに、「国宝」または「重要文化財」というものを指定するに至った経緯とその変遷について、 ざっとではあるがまとめてみた。
 結局のところ、日本人一人一人の心に、日本古来からの日本文化を大切にする気持ちがあれば、 「国宝」という概念を設ける必要はなかったのではないだろうか。  つまりは、明治新政権という、日本の長い歴史において、最低最悪の蛮人たちによる徹底した日本古来の文化の破壊活動さえなければ、 一つ一つの建造物や美術品などに、「国宝」とか「重要文化財」などといった概念をつけて保護する必要もなかったのである。
 江戸時代までの人々は、そういう概念が無くても、日本古来の文化を尊重し、 どの美術品を保護すべきか、どの建造物を保護していくべきかを理解していた。

では、はたして今日の日本人はどうだろうか。 たしかに、直接的に日本文化を破壊しようとする人物や団体はいないようにはみえる。  しかし、いまだに、君が代斉唱や日本国旗を掲げることを拒否し、徹底した日本自虐史観を生徒に教える学校教師や、 「日本列島は日本人だけの所有物じゃない」とか訳のわからないことをのたまう政治家がいた政党など、明治政府に通じるほどの愚か者たちがいるのが事実だ。
 他に、日本各地の国宝、あるいは国宝級の建築にペンキなどをかけるという信じられない蛮行を行う人物もいた。  その容疑者が浮上した時、マスコミ各社はしきりに、容疑者は「日本人医師」であるなどと見え透いた嘘の報道をし、 その後、ぴたりと「報道しない自由」の発動を行った。 まるで容疑者の祖国に忖度でもするかのように。
 そういったマスコミのサヨク寄りの報道は、本来なら圧倒的少数であるはずのサヨク主義者が、 まるで国民の半数かあるいはそれ以上であるかのような印象操作を行い、ごく少数のサヨク主義者たちに忖度するためには、 大多数の日本人の気持ちを土足で踏みにじることもまったく厭わない姿勢を貫き通す。
 そのような愚かなマスコミの情報を鵜呑みにし、洗脳されると、日本人が日本を好きだと思うこと自体を憚られるような歪んだ社会が出来上がってしまう恐れがあるのである。
 そんな社会に、日本の古来からの文化を大事にする心など芽生えるわけもないのである。

ところが、明るい兆しが出てきているのも事実だ。 それが他ならぬ、「インターネット」の存在である。
 現在のネット社会においては、そういったマスコミの偏向報道など簡単に丸裸にされ、すぐにネット上で晒される。
 そして多くの人間がその偏向報道を行ったマスコミ槍玉に挙げて、批判し、徹底的に叩き潰す。
 近年では朝日新聞の慰安婦問題捏造記事が記憶に新しいだろう。 長い間黙秘を続けてきた朝日新聞だが、 さすがに近年のネットによる批判を無視できなくなってきて、謝罪会見を行った。
 朝日新聞が今更、歯切れの悪い謝罪会見を行うも、もう時すでに遅しである。 現在のネット民、特に若者は、マスコミの情報などもう、 とおの昔に見切りをつけていたのだ。
 ネットの無い時代だったら、マスコミが排便のように垂れ流す有象無象の情報をすべて鵜呑みにするしかなかったのだが、 インターネットが普及した現在、間違った情報の裏側をすぐに知ることができ、それに対して意見をすることもできるようになった。
 このことは実に重要で、今後仮に、かつての薩長土肥藩のような日本古来の文化を破壊し、新しい政府をつくろうとする極左団体が現れたとして、 マスコミと結託してテレビや新聞で洗脳活動を行ったとしても、ネット上では一笑に付されて、国民すべてから集中砲火をあび、 あっという間に消滅させられるということなのである。
 現在のほとんどの日本国民は、マスコミが思っている以上に、日本という国が大好きで、逆に日本に自虐史観を植え込もうとする国や団体、人物に対しては、 激しく憎悪し、心の底から軽蔑する。
 そして当然のごとく古くからの貴重な文化財の数々も、永代に渡って保護していくべきだと考えているのである。


初回訪問日&撮影日 2019年02月08日

(※国宝建造物撮影ポイント)

本殿、石の間及び拝殿内部では撮影禁止だが、拝殿の屋根は正面から少し見えている。 石の間と本殿は、通常は奥社へ向かう道から少し見ることができるのだが、平成31年2月8日現在工事中である。


@石鳥居(重要文化財)

通称・石鳥居は日光東照宮の入り口に位置し東照宮の正門ともいえる「一の鳥居」である。  その大きさは江戸時代に造営された鳥居では日本最大の規模を誇り、「日本三大石鳥居」の 一基として数えられる。 造営年は元和4年(1618)。 鳥居の型は明神鳥居であり、 大きさは高さ9.2m、柱間6.7mで、柱の直径は3.6mである。材質は花崗岩。  筑前国福岡藩初代藩主・黒田筑前守長政の奉納。


A五重塔(重要文化財)

詳しくはリンク先で。


B御仮殿鐘楼(重要文化財)

御仮殿とは、本殿の修造や立替えと言った工事を行う際に、本殿でお祀りしていた神様を一時的にお遷しするための「仮の本殿」と言うことであり、 これが「御仮殿」の名前の由来である。


C御仮殿鳥居(重要文化財)

御仮殿は修造が決定した段階で造営し、ほとんどの場合、工事が終われば撤去されるが、日光東照宮の場合、 御仮殿も境内の社殿群を構成する建造物の1つとして撤去されずに残されている。  撤去されない理由は、特に江戸時代においては家康公が眠る墓所として最重要視されていたので、 定期的に本殿の修理が行われていたからである。


D御仮殿唐門(重要文化財)

この御仮殿は現在は使用されておらず、正式には文久3年(1863)まで使用されていたようである。


E御仮殿掖門及び透塀(重要文化財)

日光東照宮の御仮殿は1944年(昭和19年)9月5日に国の重要文化財に指定登録されたが、 具体的には、「御本殿」、「拝殿」、「相の間」、「鐘楼(透塀外左脇の鐘舎)」、「入口の鳥居」、「唐門」、「透塀(すきべい)」 といった建造物が指定を受けた。


F御仮殿本殿、相之間、拝殿(1棟)(重要文化財)

仮殿本殿、相之間、拝殿の創建年は、寛永16年(1639)。  本殿の建築様式は入母屋造、平入(権現造)で、銅瓦葺屋根、桁行3間、梁間三間。  相之間の建築様式は両下造一重、銅瓦葺屋根で、桁行二間、梁間一間。  拝殿の建築様式は入母屋造、平入向拝付き、銅瓦葺屋根で、桁行五間、梁間二間、向拝三間。


G表門(仁王門)(重要文化財)

表門(仁王門)は、元和3年(1636)の徳川家光による東照宮再建の際に造営された。  本柱4本とは別に前に4本、後ろに4本、合計で8本柱があることから八脚門という種類の門になる。  石鳥居が第一の門であるなら、この表門は第二の門ということになる。  建築様式は切妻造の平入。 規模は、桁行三間(奥行約6メートル)、梁間三間(横幅約6メートル)であり、 屋根の造りは銅瓦葺。


H下神庫(重要文化財)

向って左から上神庫・中神庫・下神庫が並び、3つを総称して三神庫と呼ぶ。  外部は奈良の正倉院に代表される校倉造を模しており、内部には百物揃千人武者行列と呼ばれる 神與渡御際奉仕者1200人分の装束や御道具、祭器具が収められている。  下神庫の創建年は不明であるが、推定寛永12年(1635)頃とされる。 建築様式は校倉造、切妻造の一重。  規模は桁行九間、梁間三間で、屋根の造りは銅瓦葺。


I中神庫(重要文化財)

中神庫の重要文化財登録指定年月日は、上神庫や下神庫と同じく、1908年(明治41年)8月1日である。  創建年は不明であるが、推定寛永12年(1635)頃とされる。 建築様式は校倉造・入母屋造の一重・向拝付き。  規模は桁行九間、梁間三間、向拝七間で、屋根の造りは銅瓦葺。


J上神庫(重要文化財)

上神庫の妻側には2頭の象の彫刻があり、実際の象とは姿が異なることから、狩野探幽が想像で描いたものとされる。  上神庫の創建年は不明であるが、推定寛永12年(1635)頃とされる。 その規模は、 桁行七間、梁間四間、正面向拝一間で、屋根の造りは銅瓦葺。


K神厩舎(重要文化財)

祭礼の時に神馬を入れる。 東照宮境内唯一の素木造りで流造。  室町時代武家邸宅の厩舎式によったものと言われている。 欄間に「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿の装飾がある。


L御水舎(重要文化財)

元和4年(1618)、鍋島勝茂候(35万石)よりの奉納。 花崗岩の水盤を中央に配し、水を使うことを考慮し柱は 腐らぬよう花崗岩で作られており、サイホン原理で水が噴き出す。 向唐破風造。  正面の台輪の上には立浪の彫刻、虹梁の上には波に飛龍の透彫が配されており、桃山時代の豪快な 彩色の代表的な遺風とされる。


M輪蔵(経蔵)(重要文化財)

経蔵とは、経典を収蔵しておくための蔵のことであり、輪蔵とは、 回転式の本棚のことである。 輪蔵と呼ばれる理由として、日光東照宮の経蔵内部には、 8角形をした回転式の本棚、いわゆる輪蔵が設置されていたことに由来する。  かつてはこの本棚に「一切経(大蔵経)」と呼称される「1456部・6325巻」から成る仏教聖典が収納されていたと云わる。  創建年は寛永13年(1636)、建築様式は方形造の一重裳階付き。  その規模は正面入り口一間、桁行三間、梁間三間。 屋根の造りは銅瓦葺である。


N鐘楼(重要文化財)

鐘楼と鼓楼は、陽明門の前に左右対称(シンメトリー様式)に立っており、 向って右が釣り鐘を収める鐘楼、左が太鼓を収蔵する鼓楼である。 ぼぼ同規模、同意匠の造りの二棟で、高さ約12m袴腰型の櫓造りである。


O鼓楼(重要文化財)

彫刻の数は鐘楼の方が霊獣、鳥類、水波、文様と総計78ケで鼓楼より多く、鼓楼には鳥類の彫刻が一つもないのだという。 鐘楼、鼓楼ともに、寛永12年(1635)に建てられ、桁行3間、梁間3間、入母屋、銅瓦葺き、袴腰付き。


P本地堂(重要文化財)

本地堂内部の天井には「日光の鳴竜」と呼ばれるたて6m横15mの竜の絵がある。  それは34枚のヒノキ板に描かれており、その竜の絵の頭の下で拍子木を打つと、「キィーン」という 甲高い音が反響して竜が鳴いているように聞こえるが、竜の胴体や尻尾の下で拍子木を鳴らしても 何も聞こえない。 これは天井が竜の口あたりで凹型でに湾曲して音が多重反響するためということである。
 係の人が実際に拍子木を鳴らしながら説明してくれた。  東照宮最大の建物で別名、薬師堂といわれている。 寛永の大造替のときに建てられ、 単層入母屋造、高さ15m、正面20.8m、側面13mの建物だが、昭和36年(1961)に焼損しており、 現在の建物は昭和38〜43年(1963〜68)に再建されたものである。


Q奥社宝塔(重要文化財)

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R神楽殿(重要文化財)

創建年は不明だが、寛永12年(1635)頃と推定される。 建築様式は入母屋造の一重。  大きさは桁行三間(奥行約6m)、梁間三間(横幅約6m)で、屋根の造りは銅瓦葺。  「神楽(かぐら)」と呼称される「踊り」を奉奏(ほうそう=奉納)する場所である。


S祈祷殿(旧護摩堂)(重要文化財)

祈祷殿の名の通り現在では参拝者の御祈祷に使用され「上社務所」とも呼ばれている。  江戸時代はここで護摩を焚いて天下太平を祈願したと云われ明治の神仏分離に際して、 仏教的建物であることを理由に境内から移転を命じられたが、 社務所に使用することでここに据え置かれたのだという。


21.神輿舎(重要文化財)

神輿舎(しんよしゃ)の創建は元和3年(1636)。 建築様式は入母屋造の妻入、一重、正面軒唐破風付。  規模は、桁行三間(奥行約6メートル)、梁間三間(横幅約6メートル)。 屋根の造りは銅瓦葺である。  神輿は「みこし」とも読めることから、祭事などで使用する神輿を収納しておく倉庫ということである。


22.坂下門(重要文化財)

坂下門は、奥社へ続く石段の入り口にある平入の唐門である。  江戸時代は、この門から向こう側に続く、上述の石段へは時の将軍しか入ることが許されなかった。  つまり、禁足地帯であり、ずっと閉じられたままの「開かずの門」であったということになる。  門上部の欄間には、鶴の彫刻が施され、腰部分の羽目板には牡丹や唐草模様の彫刻が見える。

アクセス
東武日光駅から世界遺産めぐりバスで5分、東照宮東参道入口ホテル清晃苑前下車、徒歩3分

駐車場 有

国宝建造物巡礼ドライブ難易度(★★)

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(★★)・・・・・・・・易しい
(★★★)・・・・・・ふつう
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国宝巡礼おすすめアクセス方法
駐車場は土日は大変混み合う。500円で日光山内フリー区間乗り降りし放題の、 世界遺産めぐりバス世界遺産めぐり手形の利用がおすすめ。


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