日本100名城 023番 小田原城(―) 神奈川県小田原市日本100名城 023番 小田原城(―) 国指定史跡 写真は天守 昭和35年(1960)再建 HOMEに戻る |
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(歴史)小田原城の歴史は、15世紀中頃に大森氏が小田原地方に進出し築城したことに始まる。
16世紀初め頃には小田原北条氏の居城となり、関東支配の拠点として拡張。
後に上杉謙信や武田信玄の侵攻も退けるほどの難攻不落の城となる。
豊臣秀吉の小田原攻めの際には、それに備えて城下町を囲む延長9kmにも及ぶ総構が構築され、
城の規模が最大に達する。
しかし、豊臣秀吉軍の大包囲により開城し、その後は徳川の譜代大名大久保氏が城主となる。
大久保氏による改修により城は近代城郭の姿になったが、大久保氏改易後に城は破却されてしまう。
寛永年間に稲葉氏が城主となると再び改修工事が行われ城の姿は一新され、その後再び大久保氏が城主となった。
元禄16年(1703)には地震により天守をはじめとしたほとんどの建造物が倒壊焼失してしまうが、
本丸御殿等を除いて再建され、天守も宝永3年(1706)に再建。 それらは関東地方の要所として幕末まで存続した。
(100名城訪問日記)この日は東京の国宝・迎賓館赤坂離宮と椿山荘三重塔を見学したのだが、その後どこへ行くかは寸前まで迷っていた。
ところで少し話はとぶが、せっかく城めぐりをするなら、その城の建造物や石垣、堀などといった遺構や、あるいはそれらの再建建造物などを、
できる限り見落とすことなく見学しておきたいところである。
しかし、下調べもせずにいきなり、広い城跡へ見学に行っても、肝心の見学すべき建造物や石垣、水堀などが、どこにあるのか闇雲に探し回ることになる。
それで結局、重要な建造物や石垣、水堀などを見落とし、それほど重要度の高くない部分ばかりを撮影して帰ってきてしまう可能性もでてくるだろう。
初回訪問日&撮影日 2014年11月08日
(※百名城スタンプ設置場所)天守閣1階 |
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@駅前から見た天守 小田原駅東口を出ると、すぐに天守が見えてきた。 うまく説明できないが、城下町は何か独特の雰囲気がある。 小田原城の見学終了後、新幹線の発車の時刻まで少し時間があったので、駅前のレトロな雰囲気の喫茶店で、 コーヒーブレイクをしていると、手前のテーブルに中年の西洋人と日本人が座っており、英語でしきりに商談していた。 だからどうだというわけではないが、私の地元ではあまり見ない光景だった。 |
A平櫓 大正12年(1923)まで現存していたが、関東大震災で倒壊。 現在の建物は昭和9年(1934)に再建されたもの。 |
B馬出門 二の丸正面に位置する門。 馬出門、内冠木門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造である。 平成21年に復元された。 |
C銅門・渡櫓門・土塀 二の丸の正門にあたる。 渡櫓門、内仕切門と土塀で周囲を囲む枡形門の構造。 平成9年復元。 |
D銅門 内側からの写真 |
E常盤木門 小田原城本丸の正門にあたり、周囲の多聞櫓と渡櫓を配した枡形門の構造。 昭和46年復興。 |
F天守 江戸時代に造られた雛型や引き図を元に昭和35年に鉄筋コンクリート造で復興された。 三重四階の天守に付櫓、渡櫓を付す。 |
G天守 最上階の高欄付き廻縁は復興に際して展望用に付けられたもので、史実にないものである。 |
H天守 内部が資料館になっている点は、他の復興天守と似た感じだった。 総工費は8000万円。 |
I二の丸東堀 場内には石垣や土塁、水堀、空堀といった遺構が残っている。 |
J大手門跡(鐘楼) この場所は小田原城址公園を出て東にある市民会館隣であり、江戸時代には小田原城の大手門があった場所である。 現在建っているこの鐘楼はもともとここより150m南の浜手御門にあったが、明治29年(1896)裁判所の東北隅に移され、 さらに大正年間に現在の場所に移された。 太平洋戦争激化による軍需資材欠乏のため、 鐘は応召されたので、現在の鐘は昭和28年(1953)に作られたものである。 |
K御用米曲輪の発掘調査 御用米曲輪(旧城内臨時駐車場)では、平成22年から発掘調査が行われており、 これまでに戦国時代の池や庭園の跡、建物の跡が見つかっている。 |
交通アクセス
JR東海道本線、東海道新幹線、小田急小田原線「小田原」駅から徒歩約10分 駐車場 小田原城址公園には駐車場は無。 周辺の有料駐車場を利用。 ドライブ難易度 非常に易しい(★) (★1つ)非常に易しい (★2つ)易しい (★3つ)ふつう (★4つ)難しい (★5つ)非常に難しい おすすめアクセス方法 JR東海道本線や新幹線の駅から近く行きやすいので、公共機関の利用がおすすめ。 住所 〒250-0014 神奈川県小田原市城内6-1 |
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