日本100名城 083番 宇和島城(鶴島城) 愛媛県宇和島市








日本100名城 083番
宇和島城(鶴島城)
国指定史跡 重要文化財1件
写真は天守 寛文6年(1666)

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(歴史)

宇和島城があるこの地の歴史は古く、まず天慶4年(941)、藤原純友の乱の際に、 警固使・橘遠保が砦を構えたのが始まりとされる。
 嘉禎2年(1236年)には、宇和島地方を勢力下に置いた西園寺公経が、砦ほどの規模の城を置き、 その頃は丸串城と呼ばれていた。
 戦国時代の天文15年(1546)に、家藤監物が入った後、天正3年(1575)には西園寺宣久の居城となる。 伊予の国が小早川隆景の所領となった天正13年(1585)には持田右京が城代となったがその2年後、 天正15年(1587)宇和郡は戸田勝隆の所領となり戸田与左衛門が城代となる。

現在の姿の城が完成したのは、文禄4年(1595)に藤堂高虎が宇和郡 7万石を与えられ入城して、大改修が完成した慶長6年(1601)のことである。  その大改修は、城堀を掘り、石垣を築いて、天守閣他、大小数十の櫓を構え、厳然たる城郭にしあげたという。
 慶長13年(1608)高虎が今治に転封となり、富田信高が入城するも慶長18年(1613)には改易となったので、 約一年間幕府の直轄地となり、高虎が預かり、藤堂良勝を城代とした。
 慶長19年(1614)12月、仙台藩主伊達政宗の長子秀宗が宇和郡10万石に封ぜられ、翌元和元年 (1615)3月に入城後、宇和島城と改めたという。 それ以後、代々伊達氏の居城となり、 2代宗利のとき寛文4年(1664)から寛文11年(1671)までかけて城郭の大修理を行い、 その間、寛文6年(1666)に天守が完成。 それが現存する天守である。
 もともと藤堂高虎が創建した天守は望楼型天守だったとされるが、宗利が再建した現存の 天守は、3重3階総塗篭式、層塔型である。
 各階には装飾性の高い破風や懸魚などが配され、その随所に御殿建築の意匠が見られる。
 現存12天守の一つであり、重要文化財に指定されている。


(100名城訪問日記)

この日は自宅がある大阪から愛媛方面へのドライブをし、まず大洲城へ立ち寄った後、次にこの宇和島城へやって来た。
 宇和島城は、現存12天守の一つである天守を有しており、現存12天守の中では、10箇所目の訪問地となる。

現在、私が主に巡っている城は、主に日本城郭協会選定の『日本100名城』である。
 その『日本100名城』の中には、現存12天守を擁する城以外に、天守が現存していないか、または、天守自体がもともと存在しない城と、 天守が近年に再建された城がある。
 一口に『日本100名城』と言っても実に様々であるが、仏塔や国宝建造物といった古建築が好きな私にとっては、やはり、100名城の中でも、 宇和島城のような、『現存天守』を有する城へ来るときは、力の入り方が違う。  宇和島城がある宇和島市へは、私の自宅がある大阪から片道400km以上の距離であり、 それより近い未訪問の100名城はいくつもあったが、そんな距離など 気にならないぐらいに一刻も早く訪れてみたい城の一つであった。
 残す現存12天守は、高知城と弘前城。 距離的関係で弘前城へ行くのはかなり先の話になりそうだが、 宇和島城と同じ四国地方にある高知城へ行くのは、そう遠い先の話ではないだろう。

という訳で、大洲城から車を走らせ、宇和島市市街地へ入り、標高74メートルの丘陵に建つ宇和島城天守を見つめながら街中を走っているうちに、城山東北側にある有料駐車場へ到着。  私はそこに自動車をとめて、早速、『藩老桑折氏武家長屋門』を潜り、登城を開始した。
 先ほどの大洲城とは対照的な、苔むした趣がある石垣を横目に、石段を登ること10数分。  高石垣の上に聳える天守の屋根が見えてきた。 私は、逸る気持ちを抑えて本丸に上がり、築城の名手・藤堂高虎が創建したと言われるその美しい天守を、しばらくの間、 あらゆる角度から眺めていた。
 現在の天守は、寛文6年(1666)頃に、 もともと藤堂高虎が創建した複合式望楼型三重天守を、伊達家2代宗利が、総塗篭式層塔型三重天守へと再建したものであり、どちらかといえば、実践向けよりというよりも装飾性が高い天守とうことである。
 だから、藤堂高虎の築城における、実戦的部分での手腕をそこから感じることは難しかったが、 そういった実戦的な部分を度外視して見るなら、宇和島城天守は、現存12天守の中で最もシンプルであり、奇をてらった部分が一つも無く、しかしそれでいて、美しさも 兼ね備えた名建築であるように思えた。
 そういう外観のシンプルさに影響されてかどうなのか、天守内もいたってシンプル。  展示品はほとんど無くて、飾られているのはといえば、どこの天守にでもありがちな日本各地の天守の写真を入れた額縁のみだった。

最後に私は、宇和島城内で数少ない現存建造物である 『上り立ち門』を見学するため、来た方向とは別の南登城口の方へ降りて行き、見学後、南登城から 先ほど車をとめた『城山東北側駐車場』へ戻るために、城山周囲の道路を歩いて行った。
 私は、『城域は四角い』という先入観から、曲がり角一つで『城山東北側駐車場』に到着するものだと思って歩いていたが、 実際には、そこに到達するまでに曲がり角が二つあった。 
 まさにこれこそ、城を攻める側が持つと言われる、『城の縄張りは方形である』という先入観であり、 その錯覚を起させたのは、そういった心理を巧みに利用して、あえて五角形の縄張りを築いた藤堂高虎なのである。
 最後の最後に、築城の名手・藤堂高虎の築城における実戦的部分での手腕を、自身で感じることが できたのは、大変貴重な体験だった。

私は駐車場へ戻って車に乗り、次の目的地である日本100名城80番『湯築城』へ行くため、松山方面へ戻っていった。

初回訪問日&撮影日 2014年01月17日

(※百名城スタンプ設置場所)
宇和島城天守

@藩老桑折氏武家長屋門(市指定有形文化財)

城山東北側の登城口に建つ長屋門。 家老桑折家屋敷地に残されていたものを、昭和27年に桑折家より 譲渡されて現在地に移築されたという。 この建造物の手前には有料駐車場があり、そこに車をとめて ここから登城した。


A三の丸跡

現在の宇和島郵便局裏手にある。 慶長6年(1601)から延宝4年(1676)まで御殿が置かれた 藩の中枢の場所だった。 御殿移転後は側室の休息所などに使われ、文久3年(1863)には御殿が 取り壊され調練場となる。 明治以降は市街地化が進み、当時の面影を残すのは石垣のみとなる。


B石段と石垣

石垣は、天守、上り立ち門とともに、現存する遺構である。 苔むした趣のある石垣の風景は、 日本三大山城の石垣と比較しても、勝るとも劣らない。


C宇和島城の井戸

この井戸は、現存する三つの井戸のうち、最も重要視されたものであり、この場所を井戸丸と呼び、 井戸丸御門、井戸丸櫓などがあったという。 直径2.4m、周囲8.5m、深さ約11m。  数少ない城山遺構の一つである。


D石垣の上に聳える天守

原生林のような手つかずの自然が残された井戸丸から見上げた天守。


E三之門跡


F南面からみた天守


G天守(重要文化財)


H天守(重要文化財)


I天守(重要文化財)


J天守内部

内部にはこれといった展示物は無い。


K天守内部3階

3階に上がっても展示されているのは、日本各地の天守閣の写真ぐらいである。  それがかえって、趣があっていい気がする。


L天守3階から見た風景

山城と言ってもおかしくないくらいの高さ(標高約74メートル)に立つ天守から見る景色は素晴らしい。


M山里倉庫(城山郷土館)

弘化2年(1845)、三の丸に建てられた武器庫で、現存例の少ない希少な建物。 昭和41年、伊達家より譲渡され、 城山内に移築。 城山郷土館として一般公開し、民俗資料や古写真が展示されている。


N上り立ち門(市指定文化財)

城山南側の搦手道口に位置し、武家の正門とされる薬医門形式になっている。 現存する薬医門としては、 最大級であり、創建年代も最古である慶長期まで遡る可能性があるという。


O宇和島出身の児島惟謙の銅像


P上り立ち門

もし仮に、天守が現存していなかったら、この建造物が、宇和島城跡のメインとして紹介されていたかもしれない。


Q途中の石段にいたネコ

この手の史跡にはたまにいる、妙に人懐っこいネコ。 野良猫かと思ったら首輪がしてあった。  どこの家で飼われている猫か知らないが、かなりの行動範囲の広さではないだろうか。

交通アクセス

JR 予讃線「宇和島」駅から徒歩15分で登り口、登り口から天守まで徒歩約20分

駐車場 登り口周辺に有料駐車場が数カ所有り

ドライブ難易度
易しい(★★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車か公共機関、どちらでも差し支えない。

住所
798-0060 愛媛県宇和島市丸之内

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