日本100名城 080番 湯築城(湯月城) 愛媛県松山市




日本100名城 080番
湯築城(湯月城)
国指定史跡
写真上は内堀土塁
写真下は復元武家屋敷

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(歴史)

湯築城の創建については不明だが、資料に初めて姿を見せるのは南北朝期初頭のことである。
 風早郡河野郷(北条市)を本拠地として勢力を伸ばしてきた河野氏が、南北朝期の通盛のころ、 その本拠地を河野郷から湯築城へ移し、その後、河野氏の伊予支配統治の中心地となった。
 1535年頃、通直は湯築城の外堀を築き、二重の堀を巡らした堅固な城となる。
 最後の当主となった通直(牛福丸)は、全国統一を目指す豊臣秀吉の四国攻めにより小早川隆景 に開城し(1585年)、河野氏の伊予支配は終わった。 その後、湯築城は秀吉配下の福島正則が 伊予の大名として入部した後、廃城となったとされる。
 湯築城は、丘陵部と平地部から成り、内堀と外堀および土塁が巡っており、 平地部には、武家屋敷があったと思われている。
 現在も発掘調査が続けられ、武家屋敷や土塀・道路・排水溝などが復元されている。


(100名城訪問日記)

この日は大阪から車を走らせ、愛媛県内の史跡巡り。 まず、大洲城から宇和島城へ巡ったのち、松山市方面へ戻り、 ここ湯築城へやって来た。
 実は私は、松山市へ来るのは初めてではなく、湯築城と目と鼻の先にある、道後温泉や石手寺、そして 伊予松山城などを見学するのに来たことがあるのである。 では何故、その時に湯築城へ立ち寄らなかったのかというと、 その頃はまだ日本100名城巡りを開始しておらず、湯築城の存在自体を知らなかったというのが正しい理由である。
 正直なところ、今回ここの存在を知ったのも、たまたま湯築城が、日本100名城の一つであったからに他ならない。
 でも、せっかく来たのだから、資料館や発掘史跡など、少しでも多くこの湯築城のことを知って帰ろうと考えた。

まずは道後公園(湯築城跡)西口手前の有料駐車場へ車を止め、中へ入っていくと、右手に スタンプ設置場所である湯築城資料館が建っていた。 私は早速中に入ると、係員の人が話しかけてきた。
 そして開口一番に、「100名城スタンプを集めてる人ですよね?」と、尋ねてきた。
 私は、「・・・そうですけど、なんで分かったんですか?」と尋ね返すと、その係員が言うには、
 「いや〜、100名城スタンプを集めをしてる人たちって、大体、身なりを見たら分かるんですよ。」 とのこと。

『そうか・・・。 係員の人から見たら私は、『いかにも日本100名城スタンプを目当てに 城跡を見学している人』 なのが、すぐに分かるような身なりをしているわけか・・・。  それがどういう身なりなのか、あえて聞くことはしなかったが、それはきっと、都会的でクールな身なりのことを指すのだろう・・・』
 ポジティブな私はそのように、褒め言葉だと解釈するようにするが、何にせよ、もしどこかの日本100名城で、 『いかにも日本100名城スタンプを目当てに城跡を見学している人』 と、思われる身なりをしている人物がいたら、 それは、私かもしれないということである・・・。

さて、この湯築城跡についてであるが、私が見学中、真っ先に思い浮かんだのが、以前に行った 一乗谷城である。
 なぜ一乗谷城が思い浮かんだかといえば、きっかけは、どちらにも復元武家屋敷があるという、安易な理由だった。
 しかし考えてみると、一乗谷城と湯築城は、どちらも中世に創建された点で一致し、一乗谷城は越前で、湯築城は伊予で、それぞれ中心地として栄華を誇ったが、 近世になると、新時代の勢力である、織田信長や豊臣秀吉に敗北して廃城へ至った点まで一致する。

そのように新時代への移り変わりに、時代のうねりに巻き込まれて廃城になった旧時代の城は、他にも無数にあったことであろう。
 そしてその新勢力も、さらに新しい時代が来れば滅び、流転は永遠に繰り返していくわけである。

私は湯築城丘陵展望台から見える、遥か山上の伊予松山城を眺めながら、人の世の流転について、 しばらくの間考えていた。
 そして、この日の日本100名城巡りを終え、次の目的地である、国宝本堂有する大宝寺へ車を走らせた。

初回訪問日&撮影日 2014年01月17日

(※百名城スタンプ設置場所)
湯築城資料館

@西入口

左右に外堀土塁がある。


A湯築城資料館

日本100名城スタンプ設置場所であり、展示品やスライドなどを上映している。


B外堀土塁と復元武家屋敷入口


C武家屋敷1


D武家屋敷2


E遮蔽土塁


F内堀

この城には堀が二重に巡らされており、そのうち内側の堀を、内堀という。  敵が中央の丘陵に簡単に攻め込めないようにするためのもので、さらに守りを強化するために 、掘った時の土をかき上げて土手を造っている。これを内堀土塁という。


G土坑(ゴミ捨て場)


H丘陵部展望台


I丘陵部展望台から見た伊予松山城

逆光ではあるものの、なかなかの絶景だった。 松山城は湯築城廃城後に築城が開始されたため、 両方の城が同じ時代に存在はしていなかった。

交通アクセス

JR予讃線「松山」駅から市内電車「道後温泉行き」で約20分「公園前」駅下車、徒歩約1分

駐車場 有り

ドライブ難易度
易しい(★★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車か公共機関、どちらでも差し支えない。

住所
790-0857 愛媛県松山市道後公園

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