国宝 大宝寺 本堂 愛媛県松山市





大宝寺
本堂
国宝
鎌倉時代前期

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(歴史)

大宝寺は、寺伝によると、大宝元年(701)に地元豪族・越智玉興によって創建されたと伝わる。  江戸時代には、松山藩主の祈願所となり、貞享2年(1685)には、 松平氏の4代藩主である松平定直によって、本堂修理が行われたという。
 本堂は、平安時代末期の阿弥陀堂形式を用いた鎌倉時代前期の建立と推定されており、 県下で最も古い和様建造物である。 桁行三間、梁間四間の寄棟造で、本瓦葺屋根。  その柱は全て円柱で、四隅の柱の上には船肘木が用いられている。  堂内にある厨子は室町時代の作で、正面3間、軒唐破風付、こけら葺。 厨子は、貞享2年(1685年)再興の銘がある修理棟札と共に国宝の附として指定されている。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

この日は愛媛県内の日本100名城(大洲城宇和島城湯築城)を巡った後、国宝本堂有するここ大宝寺へ 立ち寄った。
 幹線道路から狭い街中へ入ると、すぐに大宝寺駐車場へ到着。 駐車場からすぐの場所にある 大宝寺境内に入ると、すぐに国宝・本堂が見えてきた。
 境内は狭く、主要な建造物は本堂のみといった印象だが、本堂手前にはうば桜(学名 エドヒガン)が 植えられていた。
 大宝寺には「うば桜伝説」という悲しい伝説が伝わるそうだ。
 それは以下のような内容である。

『とある子宝に恵まれなかった長者が、大宝寺のお薬師様に願かけをしたら、願いが叶って女の子が生まれる。  女の子は露と名付けられ大事に育てたが、ある日、乳母のお乳が出なくなる。 再びお薬師様のおかげでなおったので、 そのお礼に長者が建てたお堂が、大宝寺本堂だという。 露が15歳のとき病にかかり、乳母は、 自分の命にかえてもお嬢様をお助けくださいとお薬師様にお祈りした。  するとそのかいあってか、露は元気になるも、乳母は倒れ床についた。 乳母はお薬師様との約束ですといって、 薬も口にせず、「お薬師様にお礼として桜の木を植えてください」と言って死んでしまった。  長者は乳母の言葉通り、桜を本堂の前に植えた。 すると不思議なことに、桜は枝なしに幹から二〜三輪花が咲き、 その花の色は、母乳のような色で、花はまるで乳母の乳房のようであったという・・・。』

以上が、大宝寺に伝わる『うば桜伝説』である。

何とも、大報恩寺の『おかめ伝説』に匹敵するほど、悲しい物語である。
 日本各地には、『うば桜伝説』や『おかめ伝説』のように、仕える主や、夫のためには、自らの命も厭わないという、 自己犠牲の精神を強く持った女性が 題材となった伝説が数多く伝わる。
 そのように、女性が極端な自己犠牲の精神を持つことが、いいことかどうなのかは別にして、古き時代の日本人女性は、現在女性よりもそういった精神を 強く持っていたことは事実かもしれない。

私は誰もいない境内をあとにし、この日最後の目的地である、太山寺へ向かった。


初回訪問日&撮影日 2014年01月17日

(※国宝建造物撮影ポイント)

外観は自由に撮影可能


@本堂(国宝)と乳母桜


A本堂(国宝)

アクセス JR予讃線「松山」駅から徒歩20分

駐車場 有

国宝巡りドライブ難易度 (★★★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

おすすめアクセス方法
寺へ至る道と駐車場は狭いが、距離は短い。 極端に車幅が大きい車でない限り問題ない。 

住所
愛媛県松山市南江戸5−10−1


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