日本100名城 010番 山形城(霞ヶ城) 山形県山形市



日本100名城 010番
山形城(霞ヶ城)
国指定史跡

写真 二の丸東大手門 平成3年に再建

100名城フォトギャラリーに戻る

HOMEに戻る

(歴史)

山形城は、最上氏の祖・斯波兼頼が延文2年(1357)に築城した。
 戦国時代末期には最上義光が十数基の櫓をそなえた大規模な平城に拡張整備する。
 その後に入った鳥居氏も大幅な改修。 鳥居氏以後、たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。  幕末には本丸は更地で、 御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。
 近年は絵図などをもとに、二の丸東大手門が平成3年に木造再建され、また、本丸一文字門の石垣と大手橋が平成 18年に再建されるなど、順次復元を進めている。


(100名城訪問日記)

この日は2泊3日の東北旅行の最終日だった。 早朝に米沢市内のホテルを車で出発し、山形市内のレンタカー屋に到着。
 そこで、初日の朝からまる二日間借りていたレンタカーを返した後、徒歩で山形城へやってきた。
 旅行一日目は訪問場所が多く、旅行二日目は移動距離が長かったため、ほとんど駆け足での観光だったが、 最終日くらいはゆとりをもって観光しようということで、電車移動で山形市内の観光名所である、山形城と山寺の2箇所のみを 見学することになった。

私たちはレンタカー屋から山形駅方向へ歩き、そこから徒歩数分で山形城南門に到着した。
 二の丸南大手門跡を横目に中に入るも、周囲には体育館などしか無く、観光地的雰囲気は皆無。  ここが本当に城跡なのかと 疑いたくなったが、堀に沿って外周を歩いて行くと、現在の山形城跡のメイン的建造物 とも言える『二の丸東大手門』に到着した。
 『二の丸東大手門』は明治8年に解体されるも、平成3年に再建された本格木造建造物である。
 その中では山形城に関する数多くの資料が展示されており、私たちが見学していると、係の人が 話しかけてきて、色々な説明をしてくださった。 私はもう少し話を聞きたかったのだが、知らない人が その係員に別の質問を始めてしまい、私たちの方の話は見事に遮られてしまった・・・。
 しかし、短い時間でも係の人の話を聞いて、 山形市ではかなり真面目にこの山形城の復元を行っているということがよくわかった。
 近年は城跡に、史実に反した建物を復元したり、もっと酷いところになると、 元々存在しなかった天守を建てたりして、観光地化しようとする自治体も多いようだ。
 それに対して山形市は、山形城東大手門一つとっても、幕末の東大手門平面図や、明治初年に 撮影された写真などを元に、綿密な計画の下、かなり忠実に再現している。
 そして、今後復元予定の『本丸御殿』や『本丸一文字櫓』に関しては、その資料が不足していることから、 民間にその資料がないか、募集をかけるほどの念の入れようである。
 観光客を呼べる建物をよりも、史実に基づいた建物を建造しようとする山形市のそういう姿勢は、非常に好感が持てた。

私たちはその後、同じ霞城公園内にある、100名城スタンプ設置場所『山形市郷土館』へ向かった。
 この『山形市郷土館』と使用されている建物は、もともとは明治11年に建てられ『済生館』と呼ばれた山形県立病院の本館 の建物を、この地に移築したものである。
 だから山形城とはあまり関係が無いが、その建物自体が重要文化財に指定され、明治時代当時の 医学に関する興味深い展示物が多数展示されていた。
 それらの中でも特に目を引いたのは、天然痘など、明治時代当時の難病にかかった人を描いたイラストの数々である。
 それらはかなりリアルに描かれており、そういうのが苦手な人は、その部屋には入らない方がいいかもしれない。
 ただし、建物自体は、開智学校などと同じく、明治時代初期の擬洋風建築の傑作であり、日本全国の 古い洋風建築の資料も多数展示されていたので、ゆっくり見学したいところである。

私たちは山形城と旧済生館本館をじっくり見学した後、山形駅から電車に乗り、今回の東北旅行の最終目的地である、 『山寺』へ向かった。


初回訪問日&撮影日 2012年11月09日

(※百名城スタンプ設置場所)
最上義光歴史館、山形市郷土館受付窓口

@南門入口付近

山形駅西口から徒歩数分でたどり着いた『霞城公園』入口。『霞城』と呼ばれるようになった 理由は、関ヶ原の合戦の頃に直江兼続(上杉軍)が富神山の麓からお城を十日間見てたが、 霞がかかって何も見えなかったことから『霞城』と呼ばれ、現在もそれが定着していて『霞城公園』 と呼ばれている。


A南門付近の石垣

二の丸の石垣・土塁・水堀は、山形城で残る数少ない遺構である。


B二の丸南大手門跡

この南大手門跡を横目に公園内に入るも、体育館等があるのみでこのあたりは観光地的雰囲気は皆無である。
 私たちは外堀に沿って、二の丸東大手門を目指した。


C巽櫓石垣跡

外堀沿いに歩いている途中で見た巽櫓石垣跡である。この周辺ではジョギングや散歩をする人が多数見受けられた。


D二の丸東大手門

この門は平成3年に復原されたものである。 もともとは鳥居氏の時代に建造された二ノ丸東西南北の門の一つである。 二ノ丸の4つの門の内最も規模が大きかったという。


E二の丸東大手門

現在、実質的に山形城の建物はこの東大手門(復元)のみである。 中では山形城に関する資料が多数展示されているが、 観光地というよりは、資料館といった印象である。


F二の丸東大手門

東大手門手前から見た二ノ丸の塁線の土塁。 春には桜の花が咲き乱れ、 山形城の史跡よりもむしろ、桜目当ての観光客が多数訪れるという。


G最上義光像と二の丸東大手門

二の丸東大手門から中に入ると、真っ先に目に付く最上義光像。


H最上義光像

昨日行った新発田城の溝口秀勝像に比べると、かなり勇ましい印象の像だ。  かなり武闘派の人だったのだろうか?


I本丸一文字門石垣と大手橋

かつて明治維新の際に山形城が売却され、本丸の堀は全て埋め立てられたという。  現在はそれを掘り起こして南東の一文字門を復原中とのことである。


J大手橋

史実に基づき日本古来の建築様式により木造建で復原したという。


K旧済生館本館(重要文化財)

現在は山形市郷土館として使用されており、100名城スタンプの設置場所でもある。 明治11年に「済生館」という名前で建造された県立病院が、明治21年には民営になり、明治37年には市営になる。  その後、昭和41年に「済生館本館」が重要文化財に指定され、昭和44年には霞城公園内の現在の場所に移築され、 「山形市郷土館」として開館したという。


L旧済生館本館(重要文化財)

擬洋風建築のモダンな外観が珍しい。


M旧済生館本館中庭

内部の展示物の数々は撮影禁止なので、中庭だけを撮影した。

交通アクセス

JR奥羽本線・山形新幹線「山形」駅下車、西口から南門まで徒歩約8分、
または東口から東大手門まで徒歩約12分

駐車場 有

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
都合に応じてどのアクセス方法でも問題ない

住所
山形県山形市霞城町3 ほか

より大きな地図で 日本百名城 を表示

100名城フォトギャラリーに戻る

HOMEに戻る