日本100名城 038番 岩村城(霞ヶ城)
岐阜県伊那市




日本100名城 038番
岩村城(霞ヶ城)
県指定史跡
写真上は本丸の6段の石段
写真下は平成2年に再建された太鼓櫓と表御門

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(歴史)

岩村城は海抜717mで、全国の山城中、最も高所にあり、高取城・備中松山城とともに日本三大山城に数えられる。
 城の創業は、文治元年(1185)、源頼朝の重臣加藤景廉によるといわれているが、根拠となる史料は無い。
 ただ、かつて城内にあった城山八幡宮に景廉を祖とする遠山頼景の棟札が残っており、 少なくとも永正期(1504〜21)には遠山氏の居城として築かれていたことが分かっている。
 戦国時代には、美濃・信濃・三河の国境近くにあることから、武田信玄と織田信長による争奪戦が繰り広げられ、 天正3年(1575)には織田方にくだり、岩村遠山氏は滅亡した。 その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦までの間に、 城主が変転しを重ねたが、慶長6年(1601)には2万石で松平家乗が入封して近世岩村藩が成立し、 大手門に続く城山北西の山麓の台地に藩主邸を構え、そこを平時の居館としたという。
 そして、大給松平家2代→丹波家5代→大給分家松平家7代と継承し、明治維新まで続いた。


(100名城訪問日記)

この日は自動車で、大阪の自宅→松本城高遠城光前寺というコースでドライブした後、最後にこの岩村城へ 立ち寄った。
 ただし、ここに来る前の三箇所の史跡見学に、思いのほか時間を取ってしまったので、100名城スタンプ設置場所である岩村歴史資料館に 到着した時には15時30分になっていた。 駐車場に車を止め、歴史資料館でスタンプ押印し見学。 そして外に出ると、 手前には再建された藩主邸の建物があったが、日が暮れると大変なので、先に山頂の本丸跡へ徒歩で向かうことにした。
 ちなみにここ岩村城は、奈良県の高取城や岡山県の備中松山城と並ぶ日本三大山城の一つにして、海抜717mと、最も高所にある城跡として知られている。
 山城ハイキングの大変さは、奈良の高取城に行った時に思い知らされた過去があるので、少し不安な気持ちを抱きつつも、私は一人で、山頂の本丸へ向けて歩いていった。
 するといきなり、「クマ出没注意」の看板が目に入ってきた。 しかもその看板には恐ろしげな二匹の熊のイラストが描かれているではないか。
 奈良の高取城に行った時は、真夏の「マムシ注意」の時期に、雑草が生い茂った山道を、 冷や汗を垂らしながら歩いて行ったが、その時とはまた違った意味での緊張感が私を襲った。
 しかも、先ほど行った長野県の高遠城には観光客が一人もいなかったので、「時間も遅いし、この岩村城にも人がいないのではないだろうか・・・」とか、 「たった一人で山道を歩いている時に、もしクマさんに出会ったらどうしよう・・・」など、色々不安なことが頭をよぎり気が気じゃない。
 しかし、数分歩くと、山頂からカップルや熟年夫婦など、けっこう多くの観光客が降りてくるではないか。
 どうやらこの時期、岩村城周辺には紅葉が残っており、それ目当ての観光客が多く訪れるようだ・・・。
 私はホっと胸を撫で下ろして、少し早歩きで石段を登って行った。 そして山頂の本丸跡へは20分足らずで到着。
 日は暮れてきていたが、本丸跡から見る雄大な風景はなかなかのものだった。
 私は日本一の山城からの眺めや、ひな壇状に6段にも重ねられた迫力の石垣などを十分堪能した後、山を降りて、 再び歴史資料館駐車場まで戻ってきた。 駐車場横にある再建太鼓櫓と表御門の見学は、本丸登頂の後回しにしていたので、 日が暮れ始めてからの撮影になってしまったが、 それでも本丸跡での雄大な景色には代え難かっただろう。
 それらの建造物の撮影し、この日の日帰りドライブの行程、すべてを終了した。

私は一人ドライブの行程すべてが、予定通りに終了し、後は自宅へ車を走らせるだけという、この達成感に浸れる瞬間が大好きである。
 自動販売機で、ブラック・コーヒーを購入後、車に乗り込み、車載ipodのプレイリストは「Coolな洋楽大全集」をセット。 
 遅めの紅葉が残る岩村城を後にし、大阪の自宅へ車を走らせた。


初回訪問日&撮影日 2012年11月20日

(※百名城スタンプ設置場所)
岩村歴史資料館受付窓口(月曜日休館。月曜日が祝日の場合翌日休館)

@岩村歴史資料館

100名城スタンプ設置場所である。 ここの駐車場に車を止めて資料館見学後、本丸跡までは徒歩で向かう。


A再建された藩主邸

歴史資料館の駐車場向かいに建っていたが、見学は本丸登頂後にする。


B「クマ出没注意」の看板

『※市街地付近にも出没していますので注意してください!!!! ※キノコ狩り・墓参りなど山周辺へ行くときは「鈴」など携行しましょう!!』
という本文。 悪人面のクマのイラストが恐怖をそそる。


C下田歌子勉学所

山頂口手前にあった。文章を読んだが、岩村城との関連は不明。


D登山道入口

いよいよここから城山登山の始まりである。


E登山道

結構急な石段なので11月下旬のこの時期でも汗をかいた。 16時をすぎていたがすれ違うハイキング客多数。


F最初に見えてきた石垣

こういう名も無い石垣でも初めて見ると興奮する。


Gちらほらと残る紅葉

登山道を歩いていると、所々で紅葉が残っていた。


H本丸の6段の石垣

ついに岩村城跡のメイン的石垣である、6段の石垣が見えてきた。 ここまで来ると山頂はすぐそこである。


I本丸の6段の石垣

本丸の北東面に雛壇状に築かれた6段の見事な石垣。 元は最上部のみ高石垣だったが、 崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積むことを繰り返した結果、現在の姿になったという。


J長局埋門跡

両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門の跡。


K本丸跡

本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられていた。 東と北には一段低い位置に長局と 呼ばれる細長い曲輪が付属。 正門は東曲輪側の東口門である。 内部に施設は無く、広場となっていた。


L本丸からの眺め

本丸からは城下町が見下ろせる。


M岩村城の建物

城郭は中世城郭から近世城郭へと修築し、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪等々が設けられ、 丸と曲輪は石塁や自然の断崖をもって区画。 要所に櫓、塀、城門が構えられていた。  明治維新により廃城。 明治十六年に建物は取り壊された。


N三好学の像

1862年、美濃国岩村藩士の子として、岩村藩江戸藩邸に生まれた。 近代植物学、環境保護の先駆者と言われている。


O藩主邸(太鼓櫓と表御門)

平成2年に再建。 江戸の平和な時代になると、城主が城の山頂(本丸)に住む必要がなくなり、慶長6年、城主 松平和泉守家乗は、城の山麓に藩主邸を造営した。 以後ここは政治の中心としての機能を果たす一方、 「太鼓櫓」を設け、城下に時を知らせ続けたのである。

交通アクセス

明和鉄道「岩村」駅下車、岩村歴史資料館まで徒歩20分(本丸まではさらに20分)

駐車場 有


100名城巡りドライブ難易度 (★★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
岩村歴史資料館前に駐車場があるので、そこに止めるといい。
本丸までは徒歩でしか行けない。

住所
岐阜県恵那市岩村町字城山

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