日本100名城 029番 松本城(深志城) 長野県松本市




日本100名城 029番
松本城(深志城)
天守、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓(以上国宝)、国指定史跡
天守建造年 1615年(元和初年ごろ)
天守建造年に関しては他に、「天正19年(1591年)説」、「文禄3年(1593年)説」、
「慶長2年(1597年)説」、「慶長5年・6年(1600年-1601年)7説」など色々な説がある。

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(歴史)

松本城はもともと、戦国時代の永正元年(1504)に小笠原氏一族の島立貞永が築いた深志城が前身とされている。
 その後、甲斐の武田信玄がこの地を占領したが、天正10年(1582年)には小笠原貞慶が再び取り戻し、 そのときに名を松本城と改めた。
 天正18年(1590)豊臣秀吉が、徳川家康を関東移封にした際、小笠原氏は家康に従って下総へ移ったので、  秀吉は石川数正を松本城に封じた。

現存する天守、乾小天守、渡櫓をはじめ、御殿、太鼓門、黒門、櫓、塀などを造って近世城郭としての松本城の 基礎を固めたのは、石川数正とその子の康長の時である。
 天守の築造年代は、康長の文禄2年から3年(1593〜1594年)と考えられているが、はっきりとした年の確証は無く、様々な説があるという。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(100名城訪問日記)

この日私は、久しぶりに一人でロング・ドライブをする計画をたてた。
 まず、大阪の自宅から日帰りで行ける範囲の行き先を考えてみたのだが、仏塔に関してはこの間、山形県の『羽黒山五重塔』に行ったことにより、 国宝指定30塔、全拝観を達成したばかりだったので、次は『国宝四天守』の全見学を達成しようと考え、『国宝四天守』の中で、 唯一まだ行ってなかった、この『松本城』までドライブすることにした。
 もちろん、せっかくこんな遠くまで行くのだから、松本城一ヶ所だけじゃなく、その帰りに、 『高遠城』→『光前寺三重塔』→『岩村城』と、立ち寄りながら大阪に帰ることにした。
 大阪の自宅から松本城までは、片道380kmの道のり。 これは、あんまりのんびり出発していたら、4ヶ所も巡れないと 考え、なるべく松本城の観覧開始時間である8時30分ぐらいに到着するようにと、早朝の4時に自宅を出発した。
 早朝からの長距離ドライブといえば、若い頃、日帰りスノーボードを楽しみに行った、岐阜長野方面のスキー場を思い出したが、 今回はあくまで観光のみなので、気楽なものだった。 若い頃は、真夜中に家を出て、早朝にスキー場に到着、夕方までスノーボードを散々楽しんだ後、帰宅。
 自宅到着は夜中になって、次の日は仕事というハードなスケジュールを、ひと冬に何回もこなしていた。 今にして思えば、よくそれだけ体力があったなと思う。

まず名神高速道路を東に向けて走っていると、関が原を越えたあたりで、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきた。
 そういえば若い頃、スキー場へ行ってた頃も、この関ヶ原周辺ではしょっちゅう大雨だった気がする・・・。 
 雨男の私としては少し不安になるも、この日に関しては、東名高速道路に入る頃にはすっかり止んで快晴に。
 その後、中央自動車道から長野自動車道を経て、松本料金所を下りたころには、9時をまわっていた。
 そして、松本市内を走り、松本城に近づいてくると、右手に松本城天守のレプリカと思われる建物が見えてきた・・・。

「!?・・・。 いや・・・? レプリカ・・・じゃない?!」
 カーナビで確認すると、そのレプリカと思われた建物の位置は、紛れもなく松本城天守がある位置なのである。
 「これが松本城天守か・・・、想像していたよりも随分小さいな・・・。」 これは、初めて松本城天守の実物を見た人の、大半が感じることなのではないだろうか。

とにもかくにも、私は駐車場に車をとめて、松本城公園の敷地の中に歩いて行った。
 するとどうだろう。 先ほど道路から小さく見えていた天守が、埋の橋をこえて近づくにつれて、どんどん大きく見えてくるではないか。
 そして、堀に沿ってさらに歩いていくと、松本城のパンフレットや切手にも採用されている最も有名な風景が目に飛び込んできた。
 それは、北アルプスの雄大な山々を背景に、松本城の、天守と、乾小天守、渡櫓、辰巳付櫓、月見櫓という5つの建造物から成る、複合連結式天守が、堀の中の石垣に 堂々と建つ風景である。
 その巨大で均整の取れた、美しい建造物群を見た時、私は納得した。
 この城は、天守の一層目から五層目、他の4つの連結式建造物、石垣、そして、堀のすべてが見える場所から見てこそ、 威風堂々としたその姿が現れるのだと。
 現存12天守の中で、唯一の平城であるこの松本城は、天守の立地の関係上、遠くから見るとどうしても低く見えてしまう。
 だから、道路からは、どっしりとした4層目から下が見えず、天守の上部、小さな三層目より上の部分しか見えてなかったのである。
 もしこの松本城が、他の現存天守同様、平山城か、山城だったとしたら、一体どれだけの迫力だったか計り知れないだろう。

私はその後本丸に入り、天守内を見学し、松本市立博物館、旧開智学校(重要文化財)、松本神社などを見学。
 松本市内には観光する場所がたくさんあり、一日たっぷり使いたいところだったが日帰りだとそうもいかない。
 私は駐車場に戻って、自動車に乗り、次の訪問地である高遠城へ向かった。


初回訪問日&撮影日 2012年11月20日

(※百名城スタンプ設置場所)
松本城管理事務所

@駐車場近くの道路から見た天守

運転中に視界に入ってきた天守は、非常に小さく見えた。
 本や画像で見ると、かなり大きく見えてたので、最初にこれを見たときは、天守を形どったオブジェか何かだと思ってしまった。


A埋の橋から望む天守閣

ここまで来ると、大分大きく立派な建物に見えてくる。
 現存天守の中でも二番目に高いので、実際にかなり大きな建物なのである。


B正面から見た天守と乾小天守、そして渡櫓

正面と書いたが、実際どちらから見るのが正面なのかは分からない。


C左から乾小天守、渡櫓、天守、辰巳附櫓、月見櫓

松本城は、このあたりの角度から見た姿が最も有名なのではないだろうか。 この角度から撮った写真は、パンフレットや切手など、 数多く使用されている。


D別角度

似たような角度でも、少し移動するだけで様々な表情を見せてくれる。


E本丸に入る正門

ここから先は入場料が必要である。 入場料は大人600円で、近くの松本市立博物館と共通券だった。 背後に見えるのは黒門。


F黒門

本丸に入る正門で、櫓門と枡形からなり、本丸防衛の要。 一の門(櫓門)は、昭和35年に復興し、二の門と袖塀は 平成2年に復元されたという。


G本丸正面から見た松本城複合連結式天守

建物の入口があるのでここから見た姿が正面ということになるのだろう。 武将姿の係員が観光客に写真を撮ってあげていた。
 100名城スタンプ設置場所である管理事務所兼土産物屋も本丸にある。


H松本城複合連結式天守が最も大きく見える角度

ここから見る角度が最も大きく見えるのだそうだ。 しかも、5棟の国宝建造物すべてを、はっきり見ることができる。  ある意味ここがベストアングルと言えるかもしれない。


I乾小天守(国宝)

乾は通常、北西の方角にあたるが、乾小天守は、天守の北に位置している。 北はそむく、敗れるなどの意味があり、 忌み嫌われたから、乾小天守となったのだそうだ。 乾小天守は、天守と構造が異なり、丸太柱が使われている。 高さは16.8m。 


J渡櫓(国宝)

松本城の天守と乾小天守をつないでいるのが、渡櫓である。 ここは、松本城の天守閣への入り口でもあり、 頑丈な扉が備え付けられていて、敵が簡単に中へ入れないようになっている。 高さは12.0m。


K月見櫓(国宝)

月見櫓は泰平の世になってから増築された月見をするための櫓で、北・東・南の舞良戸を外すと、三方がふきぬきになる。  周りにめぐらされた朱塗りの回縁や船底型をした天井は、天守、乾小天守、渡櫓には見られたに開放的な造りである。  高さ11.1m。


L辰巳附櫓(国宝)

辰巳附櫓も月見櫓と一緒に寛永年代に造られた建物である。 一階は武者窓、二階は花頭窓。 花頭窓の内側には 引分板戸があり、雨水を流す工夫があるという。 高さ14.7m。


M天守(国宝)

天守閣は外からは五重に見えるが、内部は六階になっている。 その外から分からない階が三階部分であり、 光があまり入らない暗い階で、戦の時、敵に見つかりにくい最も安全な場所として武士が集まっていたという。  それに対して二階部分は窓が多く明るい階であり、武士たちがつめている武士溜だったと考えられている。  天守の高さは29.4m。


N天守六階

天守六階は、周囲に三尺の入側が巡る3間の一部屋になっている。無目敷居が回っているので、畳を敷くことも可能で、階段を除き、京間16畳の大きさ。 有事には、最高幹部の司令塔となるところでもある。


O天守最上階から見た松本市内の街並み

真ん中に見える洋風の建物は、旧開智学校(重要文化財)である。
 開智学校の名は、山形の旧済生館本館の郷土館展示室で見ていたので興味がわいてきた。


P旧開智学校(重要文化財)

せっかくだから、松本城見学後に行ってみた。
 旧開智学校は、明治6年(1873)年に開校したわが国最古の小学校のひとつである。  色ガラスなど、端々に文明開化の特徴があらわれている。 山形市の旧済生館本館と並ぶ擬洋風建築の代表的建造物である。


Q松本市立博物館内部

松本市立博物館は、松本城の隣に建っており、松本城と共通観覧券になっている。


R道祖神木造(オンマラサマ)重要有形民俗文化財

松本の城下町では、木造の道祖神が信仰の対象となっていた。 この道祖神木造には、男神・女神の立像、 男女神の一木像、男神単体像、そして写真の男根状のオンマラサマなどがある。


S松本神社

松本城の横にあり、松本城と特別な由緒関係にある。 郷土祭展の神、縁結びの神として信仰されてきたという。

交通アクセス

JR藤ノ井線「松本」駅からバス(タウンスニーカー北コース)で約6分「松本城黒門」下車、徒歩3分

駐車場 有

100名城巡りドライブ難易度 (★)

(★1つ)非常に易しい
(★2つ)易しい
(★3つ)ふつう
(★4つ)難しい
(★5つ)非常に難しい

おすすめアクセス方法
自動車が行きやすい。

住所
松本市丸の内4-1


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