国宝 旧富岡製糸場 繰糸所・東置繭所・西置繭所(群馬県富岡市)繰糸所(国宝) 東置繭所(国宝) 西置繭所(国宝) 繰糸所(国宝)内部 旧富岡製糸場 繰糸所・東置繭所・西置繭所 国宝 1872年(明治05年) HOMEに戻る | |
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(歴史)明治3年、明治政府は殖産興業政策に基づき西欧の先進技術を導入して、本格的な器械製糸工場を建設する計画を立てた。
当時、生糸は貿易で需要が高く、生糸生産の近代化は外貨獲得の有効な手段だったのである。
そこで政府が高品質な生糸を大量生産できる器械製糸技術を国内に広めるために設立した官営模範製糸場が、富岡製糸場だった。
明治26年になると富岡製糸場は民営化され、三井家、そして原合名会社へと経営が移り、昭和14年からは片倉工業により
経営され、昭和62年に創業を停止するまで続いた。
実験的企画 国宝建築評価チャート図国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化(※)評価基準 ○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。 ○美しさ 見た目の美しさを点数化。 ○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。 ○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。 以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。 (国宝建造物訪問日記)一泊二日の北関東史跡巡り2日目。 初日は午前中に都内で諸用を済ませた後、東村山市でレンタカーを借り、 正福寺地蔵堂(国宝)→川越城(日本100名城)→ 鉢形城(日本100名城)→金鑽神社多宝塔(重要文化財)と巡り、 群馬県藤岡市のビジネスホテルで一泊。 二日目のこの日は、早々にホテルを出発し、まずは 箕輪城(日本100名城)を巡った後、富岡製糸場(国宝)へ車を走らせた。 さてこの富岡製糸場。 平成26年6月21日に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録され、
同年10月17日にはさらに、繰糸所、東置繭所、西置繭所という3棟の建造物が国宝に指定されたばかりである。
その観光客数の多さをまず実感したのは、一番近くの無料駐車場が満車状態で、それを待つ車が長蛇の列をなし、
停められなかった時である。
さすがにその駐車所が空くのを待っていたら、この後に予定している史跡を巡る時間がなくなってしまうので、
私はあきらめて他の有料駐車場を探してみることにした。
そして街中を車で回っていると、製糸場から徒歩7分程度の場所にある駐車場を見つけて駐車。
早速製糸場へ向かおうと車を降りると、駐車場の係員の人がパンフレットをくれて、
富岡製糸場へのルートを詳しく教えてくれた。
とにもかくにも、東置繭所から始まり、西置繭所(外観のみ)、社宅群、
検査人館(外観のみ)、女工館(外観のみ)、繰糸所、診療所(外観のみ)、ブリュナ館(外観のみ)、
寄宿舎(外観のみ)の順で見学。
以上、結構足早に見学したがそれでも見学時間は、約1時間半を要した。 ガイドツアーに参加し、工事中の西置繭所内も見学したら、ゆうに2時間30分以上はかかっていただろう。 今回の史跡巡りの中でも富岡製糸場は、最も見ごたえのあるものだったといって間違いない。 以前テレビ番組『月曜から夜ふかし』で、2012年の都道府県魅力度ランキングで、
群馬県が全国最下位になったという話題で盛り上がっていた。
最後に私は、東置繭所内の売店で今回の旅行で巡った史跡の中で唯一のお土産を購入。
初回訪問日&撮影日 2016年08月14日
(※国宝建造物撮影ポイント)撮影自由 |
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@受付付近 見学者は途切れることなく次々に訪れる。 |
A東置繭所(国宝) 明治5年(1872)建築。 長さ104.4m 幅12.3m 高さ14.8m。 木で骨組みを造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」という工法で建てられた。 |
B東置繭所(国宝) 1階は事務所・作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵していた。 |
C西置繭所(国宝) 東置繭所と同様、2階を繭の貯蔵庫として使用した。 建物の構造・大きさは、東置繭所と同じである。 1階部分は当初、蒸気機関の燃料用石炭を置く場所や繭をより分ける場所などとして使われた。 |
D社宅群 役職者用に建てられた社宅群である。 |
E東置繭所(国宝) 別角度から。 使用された煉瓦は、日本の瓦職人が甘楽町福島に窯を築いて作り、煉瓦積みの目地には 下仁田町の青倉、栗山産の石灰で造られた漆喰を使った。 |
F東置繭所(国宝) さらに別角度から。 また、その礎石には甘楽町小幡から切り出された砂岩が使われた。 |
G繰糸所(国宝) 繰糸所は、繭から生糸を取る作業が行われた場所である。 明治5年(1872)に建築され、 創業当初はフランス式繰糸機300釜が設置され、世界最大規模の工場だったという。 明治5年から操業停止の昭和62年(1987)まで115年にわたって一貫して生糸生産を行った。 建物には従来の日本にない「トラス構造}という小屋組みが使われており、 さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上の蒸気抜きの「越屋根」が取り付けられた。 |
H繰糸所内部 現在繰糸所内に残る自動繰糸機は、昭和40年以降に設置されたもの。 |
I診療所 現存のものは昭和15年(1940)に建てられた3代目の診療所である。 当初の診療所は敷地の北東部分に建てられ、フランス人医師が治療にあたっていた。 官営時代において、治療費・薬代は工場側が負担していたという。 |
J首長館(ブリュナ館)重要文化財 明治6年(1873)建築。 指導者として雇われたフランス人 ポール・ブリュナが、政府との契約満了となる 明治8年(1875)まっで家族と暮らしていた住宅。 広さ約320坪で、木骨レンガ造で建てられ、 高床廻廊風のベランダを持つ風通しのよい造りになっている。 のちに建物は工女の夜学校として利用され、片倉時代には片倉富岡高等学園の校舎として使われた。 |
K寄宿舎(浅間寮 妙義寮) 創業当初から数えて3代目にあたる工女寄宿舎で、木造2階建て、長さ55.0m 幅7.3mの長大な建物が2棟並ぶ。 北側に廊下がつき、部屋は1室15畳、1棟16部屋の計32部屋。 南側が「妙義寮」、北側が 「浅間寮」と呼ばれていた。 |
L榛名寮(左)と、重要文化財・ブリュナ館(右) 榛名寮は、首長館(ブリュナ館)西側に隣接して建てられた女性従業員のための寄宿舎2棟のうちの1棟。 もう1棟の鏑寮は解体され現存しない。 大正7年築で、痕跡から、養蚕農家と思われる民家を移築 ・改造したと考えられる。 2階は、もともと間仕切りや天井の無い大空間で、 20畳以上ある大部屋4部屋に区切られている。 |
M繰糸所(国宝)と東置繭所(国宝) 敷地内の国宝指定3棟の繰糸所、東置繭所、西置繭所は、3棟とも富岡製糸場操業当時に建築されたもので、 重要文化財指定3棟の、ブリュナ館、検査人館、女工館は、その翌年明治6年(1873)に建築された。 |
アクセス
上信電鉄「上州富岡」駅から徒歩約15分 駐車場 周辺に有料駐車場有 国宝建造物巡礼ドライブ難易度(★) (★)・・・・・・・・・・非常に易しい (★★)・・・・・・・・易しい (★★★)・・・・・・ふつう (★★★★)・・・・難しい (★★★★★)・・非常に難しい 国宝巡礼おすすめアクセス方法 周辺には一部無料の観光駐車場もあるが、満車の場合が多い。その場合は無理せず有料駐車場を使用したほうがいい。 370-2316 群馬県富岡市富岡1-1 |
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