(歴史)
鉢形城はもともと、文明8年(1476)、関東管領だった山内上杉氏の家臣長尾景春が築城したと伝わる。
永禄3年(1560)には、この地域の豪族藤田康邦に入婿した、小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、
現在の大きさになったという。
その後天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際に、後北条氏の重要な支城であった鉢形城は、
前田利家・上杉景勝らの北国軍に包囲され、攻防戦が展開されるが、1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、
北条氏邦は、城兵の助命を条件に開城した。
開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官になり、この地を統治した。
(100名城訪問日記)
この日はレンタカーを借りて、国宝・正福寺地蔵堂(東村山市)→日本100名城・川越城(川越市)と巡った後、
ここ、日本100名城・鉢形城まで来た。
実は川越城の後に、重要文化財の一重宝塔有する慈光寺(埼玉県比企郡ときがわ町)へ立ち寄る予定だったのだが、
この日は時間の都合でパス。 しかし、その一重宝塔自体、覆堂の中にあって全容を見ることができないという点で、
私のテンションが上がらなかったのも取りやめた理由の一つなので、それをとばして鉢形城へ来ることにそれほど抵抗はなかった。
ところで、鉢形城がある大里郡寄合町周辺は、同じ埼玉県でも先ほどの川越市に比べると、周囲に山が多くかなりのどかな場所である。
埼玉県に来たのはこの日が初めてだが、こういう山合いの風景は、全然初めての気がしなかった。
私は今まで日本全国、結構色々な場所へ行ったが、こういった田舎の風景は、沖縄や北海道、その他離島以外、どこもそれほど変わりない気がする。
そうした日本の典型的な田舎の風景を横目にしばらく道路を走っていると、鉢形城歴史館の駐車場へ到着。
先ほどの混んでた川越城駐車場と違い、だだっ広い無料駐車場に停まってる車は、お盆にもかかわらず、ほんの数台程度だった。
そこに車をとめた私は、まず、鉢形城歴史館受付へ向かい、入場料を払ったのち、100名城スタンプの押印をすませる。
どうでもいいが、このスタンプの押印の瞬間はいつも緊張する。
間違った番号の場所に押してないかとか、インクがかすれてないか、
上下逆さまになってないかとか、いちいち心配になるのである。
またこういった場所では、『日本100名城』のスタンプ以外に、
『お城巡りスタンプラリー100(仮称)』等、『日本100名城』と全く関係のない、紛らわしいスタンプが数点用意されていることがあり、
そもそもスタンプ自体が間違っていないかなど、
あらゆるケースを想定して念入りに確認しないと、取り返しのつかないことにもなりかねない。
こういった心配・不安は、スタンプの数が増えてくればくるほど顕著になってきた気がする。
何度か別の紙に試印したのちにそういった確認をし、押印を済ませた私は、いよいよ歴史館内部の見学を始めた。
内部では、鉢形城地形模型や、歴史年表などが展示され、さらにビデオ映像で鉢形城の歴史をわかりやすく説明していた。
歴史館の見学を終えて背後の扉から外に出ると、鉢形城の史跡そのものの鉢形城公園になっており、とりあえずはその
史跡公園内を一周し、鉢形城の見学を終えた・・・。
と、本来ならこれで、鉢形城跡の主要部分すべてを見学したことになりそうなのだが、
実はこれだけでは不十分であることを、私は知っていた。
そもそも鉢形城とは、荒川と深沢川の間に切り立った崖の上の天然の要害につくられた城である。
そのことを理解するためには、歴史館のある場所から、荒川の向こう岸に移動し、
川岸から断崖絶壁の本曲輪の全景を見学しなければならないのである。
ただしこの日は、午後から東京の東村山をスタートし、いつくもの史跡を巡っており、この後にも
巡る予定の史跡、金鑽神社多宝塔(重要文化財)があったためその時間は取れず、不本意ながら断念することになった。
私はこの時、デジャブにも似た感覚にみまわれた・・・。
その正体はすぐにはっきりした。
ずいぶん前に行った、長篠城(愛知県)でも同じようなことがあったのだ。
長篠城にも、鉢形城の歴史館にあたる長篠城址史跡保存館というものがあり、その周辺が城跡になっている点も似ていた。
さらに、長篠城は、宇連川と寒狭川の合流点の北側にある断崖絶壁の上の、これまた天然の要害に築かれた城であり、
そのことを理解するためには、やっぱり、鉢形城と同じく、保存館から何キロも離れた川岸まで行って、
その全景を見なければならなかったのだ。
とここまでは、両城とも城跡が河川に挟まれた天然の要害である点と、そこに歴史資料館があるという一致だけの
話なのだが、更に、それぞれを巡った私の行程が、結果的に、非常に酷似してしまったのである。
実は長篠城も、そこへ行く前に、掛川城や油山寺三重塔といった、史跡を見学していたため、時間が遅くなり、
更にその後めぐる予定の史跡(東観音寺多宝塔)があったために、
その断崖絶壁の要害を見に対岸へ行く時間が取れなかったのである。
その両日の行程を比較すると
正福寺地蔵堂(国宝)→川越城(日本100名城)→鉢形城(日本100名城) ※時間の都合で、川の向こうから断崖絶壁の天然の要害全景を見学できず。
→金鑽神社多宝塔(重要文化財)
油山寺三重塔(重文)→掛川城(日本100名城)→長篠城(日本100名城) ※時間の都合で、川の向こうから断崖絶壁の天然の要害全景を見学できず。
→東観音寺多宝塔(重要文化財)
と、ここまで一致してしまったのである。 ついでに文字数まで一致している。
仏塔、国宝建築、日本100名城と、長く史跡巡りをしていると、偶然とはいえ、全く違う都道府県で、ここまで行程が一致してしまうこともあるのかと感心した。
とにもかくにも、『日本100名城』は、『仏塔』や『国宝建築』と比較して、その見学時間が何倍にも膨れ上がることが多く、
この日のように複数の史跡を巡る際には、その見学に費やす所要時間は、『仏塔』『国宝建築』以上に、
念入りに計算に入れなければならないことを痛感させられることになった。
私はこの日最後の目的地である、重文多宝塔有する金鑽神社へ向けて、車を走らせた。
訪問日&撮影日 2016年08月13日
(※百名城スタンプ設置場所)
鉢形城歴史館受付