国宝 教王護国寺(東寺) 金堂 京都市南区




金堂(国宝)


教王護国寺(東寺)
金堂
国宝
1603年(慶長08年)

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(歴史)

794年、桓武天皇が平安京へ遷都した際に、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置いた。
 その一つ、この東寺は、現在ももとの場所にそのまま残っていて、一級史跡に指定され、世界遺産にも登録されている。
 東寺が歴史的に本格的に活動を開始したのは、弘法大師が嵯峨天皇により下賜され、造営を始めた頃であり、 以後、真言密教の根本道場として栄えてきたが、その歴史の中で幾度も台風、雷火、兵火などの 災害を受けることになる。
 しかしその都度、民衆の信仰の力によりその堂塔が再建されてきたという。

東寺のもともとの金堂は、延暦15年(796)に創建されたと伝わるが、文明18年(1486)に焼失した。  今の金堂は豊臣秀頼が発願して再建させ、慶長8年(1603)に竣工されたものである。  天竺様で桃山時代の代表的建築として知られるが、細部には唐・和様の技術も巧みに取り入れられている。
 本尊は薬師如来坐像と日光、月光の両脇侍菩薩像であり、台座の周囲には十二神将像を配置。  これら薬師三尊・十二神将は、桃山時代の大仏師康正の作で、重要文化財に指定されている。


実験的企画 国宝建築評価チャート図

国宝建築の能力値をサイト管理人が独断と偏見で点数化

(※)評価基準

○歴史 建造物の建立された年代の古さを点数化したもの。
 飛鳥時代以前(20点)、奈良時代(19点)、平安時代(18点)、 鎌倉時代(17点)、南北朝時代(16点)、室町時代(15点)、戦国時代(14点)、安土桃山時代(13点)、江戸時代前期(12点)、 江戸時代後期(10点)、明治時代(8点)、大正時代(6点)、昭和時代前期(5点)、昭和時代後期(3点)、 平成時代以降(1点)

○迫力 建造物の巨大さ、あるいは見た目の迫力を点数化したもの。

○美しさ 見た目の美しさを点数化。

○希少性 その意匠や形式などが同じ分類である建造物の現存例の少なさを点数化。

○おすすめ度 管理人のおすすめ度を点数化。主に観光満足度、その他、インパクトなどを重視。

以上はすべて、正式なものではなく、管理人の独断と偏見による評価である。


(国宝建造物訪問日記)

この日、『京阪みやこ漫遊チケット』を使用し、京阪電鉄『東福寺駅』降車後、市バス『東福寺バス停』から202番系統のバスに乗り、『東寺南門前バス停』で降り、 最初にやって来たのが、この東寺である。
 まず東寺西側にある蓮花門を見学後、表玄関である南大門をくぐろうとすると、 巨大建造物『東寺金堂』が真っ先に目に飛び込んできた。
 南大門からほぼ真正面に配置されたその木造建造物は、圧倒的迫力、存在感を醸しだしている。

国宝建造物巡りをするにあたって、特に、東大寺金堂二月堂金峯山寺本堂知恩院御影堂清水寺本堂知恩院三門延暦寺根本中堂園城寺金堂長谷寺本堂、 仁和寺金堂、善光寺本堂、そしてこの東寺金堂といった、 巨大木造建造物の迫力を、間近で感じることは、その醍醐味の一つであるといえるだろう。
 ただしそれら巨大仏堂の大半は寺院創建当時の建造物ではなく、近世の権力者(主に豊臣家、徳川家)によって再建されたものなのである。
 日本の古建築でも、特に巨大仏堂は、雷や火災の影響を受けやすく、同時に戦争になると、真っ先に標的となるため、近世までの現存数は、他の堂塔に比べて少なかったようだ。

私は特別、徳川家を崇拝している訳ではないが、古い日本文化を大事にしてきたという点においては、織田信長や豊臣秀吉より、ずっと評価されるべきだと言えるだろう。  (※豊臣家も秀頼による東寺金堂をはじめ、多くの寺院建造物を再建してきたが、それまでに秀吉が、多くの古い寺院を破壊してきた)。

もし仮に織田信長が本能寺で暗殺されずに、織田家による支配が続いていたとしたら、徳川家のように大寺院の再建などしなかったであろうし、 現在、各地にこれだけ多くの巨大仏堂が現存していなかっただろう。
 いや、それどころか、 自分の意にそぐわない寺院勢力を有無を言わさず退け、巨大仏堂に限らず、その他の諸堂から、仏像などの美術品に至るまで、ことごとく破壊してしまったかもしれない。
 あくまで憶測だが、一歩間違えば、明治政府が行った蛮行、「神仏分離令」に端を発した 「廃仏毀釈」が、数百年早く起こっていたかもしれなかったのである。  そういった点を考えても明治維新に至るまで、古い寺社建造物や美術品を手厚く管理し、 守り続けた江戸幕府と、それを開いた徳川家康の功績は計り知れないものがあると言えるだろう。

ちなみに東寺の金堂に関しては、豊臣秀頼の発願による再建であり、五重塔は徳川家光の寄進による再建である。
 もし仮に織田家の天下がずっと続いていれば、東寺のこれら二棟の巨大建造物は現存していなかった可能性が高く、東寺の寺領や規模は、かなり小さいものになっていたか、 あるいは、もっと最悪な場合は、東寺そのものが無くなっていたかもしれない。
 私は、金堂内の薬師三尊・十二神将を拝観しながら、様々な『もしも?』を、空想し続けていた・・・。。

次に私は、同じく東寺境内にある国宝建造物、大師堂(西院御影堂)の方へ歩いて行った。


初回訪問日&撮影日 2013年10月16日

(※国宝建造物撮影ポイント)

外観は自由に撮影可能


@南大門(重要文化財)

メインゲートとも言えるこの門だが、明治28年(1895年)に三十三間堂の西門を移築したものである。


A講堂(重要文化財)

もともとの講堂は、天長2年 (825)弘法大師によって着工され、承知2年(835)頃には完成したという。 その後天災などで 度々大破し、修理を重ねてきたが、文明18年(1486)の土一揆による戦火で焼失。 現在の 講堂は延徳三年(1491)に再建された建物である。 純和様で、旧基壇の上に建っている。


B食堂(じきどう)

9〜10世紀頃建立されたとされる初代の食堂は文禄5年(1596)の地震で倒壊し、1800年に工事が始められ再建。  その江戸時代再建の食堂は昭和5年に火災で焼失。 現在のものは昭和9年に再建されたものである。


C金堂(国宝)

この手の巨大木造建築には欠かせない、避雷針が完備されている。

アクセス 近鉄京都線「東寺駅」下車徒歩5分

駐車場 有

仏塔巡礼ドライブ難易度 非常に易しい(★)

★1つ→非常に易しい
★2つ→易しい
★3つ→ふつう
★4つ→難しい
★5つ→非常に難しい

おすすめアクセス方法
周辺道路は渋滞していることが多い。近鉄東寺駅から近いので電車、もしくはバスがおすすめ

住所
京都市南区九条町1番地


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